ヴェーダ期(紀元前1700年 - 紀元前1100年)になると、以前はハラッパー文化だった都市がH墓地文化となった事を示す墓地が発見されている。この墓地からは火葬の跡が発見されており、この文化からヴェーダの宗教(紀元前1000年 - 紀元前500年)が形成されたと考えられている。ヴェーダの宗教は、後のバラモン教やヒンドゥー教(en:Shaivism)の原型である。この文化と同時期に栄えた赭色土器文化は、ラージャスターンからヒンドスタン平野へ進出している。
十王戦争から十六大国まで(紀元前12世紀 - 紀元前6世紀)
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発見の経緯
文明の存在が認識されるようになったのは比較的遅く、イギリス支配下の19世紀になってからのことである。1826年、探検家のチャールズ・マッソンがハラッパーにある周囲約5kmに及ぶ巨大な廃墟について報告し「紀元前326年にアレクサンドロス3世(大王)を撃退したポルス王の都シャンガラの跡ではないか」と推測している。1831年にも、アレクサンダー・バーンズが調査中同地を訪れ地元の人から廃墟にまつわる「神の怒りによって滅んだ」との伝承を紹介し、本国イギリスで考古学的好奇心を大いに刺激するようになる。
イギリスは既に18世紀にアジア協会を設立しており、インドに赴任していた元軍属のアレクサンダー・カニンガムが同協会の元で、インドおよびパキスタンの考古学の基礎を築くことになる。カニンガムは1853年・1856年に最初のインダス遺跡発掘となるハラッパー遺跡の発掘を行い、未知の文字が書かれた印章・土器などが出土した。カニンガムは1862年、インド考古局の発足に尽力し初代局長となるが、この頃から鉄道敷設のため遺跡の建材を崩されてしまう課題に取り組まねばならなくなっていた。その後も第3局長ジョン・マーシャルらによってインダス文明の研究は発展していくこととなる。
遺跡
都市の規模はメソポタミアのものよりも小さく、モヘンジョダロとハラッパーが1km四方を超える規模をもち、メソポタミアの小都市に匹敵する規模であった。都市には2種類あり、城塞と市街地が一体のタイプ(ロータル、ドーラビーラ)と、城塞と市街地が分離しているタイプ(モヘンジョダロ、ハラッパー、カーリバンガン)とがある。
主な遺跡は、以下の4地域に集中している。
インダス川流域(ハラッパー
分離型、76ヘクタール:周囲を含む全体推定値150ヘクタール、モヘンジョダロ
分離型、83ヘクタール:周囲を含む全体推定値125~200ヘクタール)
ガッガル・パークラー川流域(ラーキーガリー 105ヘクタール:分離型、バナーワリー 16ヘクタール:一体型、カーリバンガン 12.1ヘクタール:分離型)
マクラーン地方(ソトカー・コー 1.5ヘクタール:分離型、ソトカーゲン・ドール 1.95ヘクタール:分離型)
グジャラート地方(北西インド、どの都市も一体型。ロータル 7ヘクタール:沐浴室の列、基壇、ドーラビーラ52ヘクタール:居住地域部分のみ19ヘクタール、スールコータダー 0.72ヘクタール、クンターシー 1.56ヘクタール:穀物貯蔵室、土器・銅の工房、バーバルコート 2.7ヘクタール、ロジュディ 7ヘクタール:大型方形建物、カーンメール 1.25ヘクタール:大型方形建物)
城塞とは周塞に囲まれている集落で、大沐浴場や火の祭壇、さらに「穀物倉」「列柱の間」「学問所」と呼ばれる大型で特殊な構造の建物が一般家屋とは別に建ち並んでいる。「穀物倉」と呼ばれる建物は湿気のある場所に近く、穀物の形跡も発見されていないため、現在では他の用途に使われたと考えられている。
インダス文明では、他の古代文明とは異なり王宮や神殿のような建物は存在しない。戦の痕跡や王のような強い権力者のいた痕跡が見つかっていない。周塞の目的としては、何らかの防衛や洪水対策の他に、壁と門を設けて人・物資の出入りを管理する事も考えられる。モヘンジョダロでは市街地の周塞が発見されていない。
文字
インダス文字は、現在でも未解読である。統計的分析ができる長文や、ロゼッタ・ストーンのように多言語併記の物が出土しないことが研究の大きな障壁になっている。一方で、インダス式紋章は文字ではないという説もあり、論争が続いている。
ドラヴィダ運動
Iravatham
Mahadevanは、インダス文字の分析からハラッパー語がドラヴィダ語に由来するとするドラヴィダ語仮説を提唱しているが、Shikaripura Ranganatha Raoはドラヴィダ語仮説に反対している。この対立の背景にはドラヴィダ運動の政治的な側面からの影響もあった。
モヘンジョダロ出土の踊り子の塑像
信仰や儀礼のあり方が地方によって異なる面がある。モヘンジョダロ、ドーラビーラやロータルの城塞には、しばしば「大浴場」と呼ばれるプール状の施設、水にかかわる施設があり、豊饒と再生を祈念する儀礼が行われた沐浴場と考えられている。
一方で、北方のパンジャブ州に近いカーリバンガンやバナーワリーのように、城塞の南区や市街地の東側の遺丘の上で、独特な「火の祭祀」を行っていたと思われる遺跡もあり、シンド州の遺跡やモヘンジョダロで見られるような再生増殖の儀礼と関係すると考えられるテラコッタ女性像やリンガ石(シヴァ・リンガム)と呼ばれる石製品が出土しない。
また、南方のロータルを含むグジャラートでは「火の祭祀」とテラコッタ女性像に象徴される再生増殖儀礼の両方の要素が見られるなどの違いが見られ、インダス文明の構造や性格を解明する上で大きな課題となっている。
※Wikipedia引用
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