2017/09/29

山幸彦と海幸彦(3)

日本書紀第十段

日本書紀巻二の'本文では、兄(え)の火闌降命には自(おの)ずから海幸(釣針)があり、弟(おと)の彦火火出見尊には自づから山幸(弓矢)があった。はじめに兄弟二人(ふたはしら)は語り合い「試(こころみ)に幸(さち)易(か)えんと欲(おも)う」と交換したが、どちらも獲物を得られなかった。兄は悔やんで弟の弓箭(ゆみや)を返し、自分の釣針を求めた。弟は兄の釣針を失していて、探し出せなかった。そこで別の釣針を作って兄に渡したが、兄は許さず、元の釣針を要求する。悩んだ弟は、自分の横刀(たち)から釣針を作り、一箕(ひとみ)に山盛りにして渡したが、兄は怒って、「我が故(もと)の鉤(ち)に非(あらず)ば、多(さわ)なりといえども取らず」と言い、ますます責めた。

 

故に彦火火出見尊は深く憂(うれ)い苦しみ、海辺に行って吟(さまよ)った。すると、そこで出会った塩土老翁が「また憂うること勿(なか)れ。我、まさに汝が為に計らん」と言って、無目籠(まなしかたま)を作り、彦火火出見尊を籠に入れて海に沈めた。すると自然(おのず)から可怜小汀(うましおはま)に着いた。そこで籠を棄てて進むと、すぐに海神の宮に行き着く、とある。

 

その宮は雉(たかがきひめがき)整頓(ととの)いて臺宇(たかどの)玲瓏(てりかかや)いていた。門の前の井戸のほとりに湯津杜(ゆつかつら)の樹があって枝・葉、扶疏(しきも)いて(広げて)いた。彦火火出見尊がその樹の下に進んで、徙倚(よろぼ)い彷徨(さまよ)っていると、一人の美人(おとめ)が扉を開けて出て来た。そして玉鋺(たまのまり)(綺麗なお椀)に水を汲もうとしたので、擧目(あお)いで見つめた。そこで美人は驚いて帰り戻り、その父母(かぞいろは)に、「一(ひとり)の希(めずら)しき客(ひと)有り。門の前の樹の下に在り」と申し上げた。 


そこで、海神は八重の畳を重ね敷いて招き入れ、坐(まし)て定(しず)ませ、来た理由を尋ねた。彦火火出見尊は事情を話した。聞いた海神が大小の魚を集めて問いただすと、皆は、「識(し)らず。ただ赤女(あかめ)(鯛の名) 比のごろ口の疾(やまい)有りて来たらず」と言う。召してその口を探すと、失った釣針が見つかる、とある。

 

そうして彦火火出見尊は海神の娘の豊玉姫を娶り、海の宮に住んで三年が経った。そこは安らかで楽しかったが、やはり故郷を思う心があり、たまにひどく太息(なげ)き(溜息をつく)ことがあった。豊玉姫はそれを聞いて、その父に、「天孫(あめみま)悽然(いた)みて數(しばしば)歎く。蓋(けだ)し土(くに)を懐しむ憂いありてか」と語った。

 

海神は彦火火出見尊を招くと、「天孫若(も)し郷に還らんと欲わば、我、まさに送り奉らん」と従容(おもむろ)に語り、すでに探し出した釣針を渡して、「此の鉤(ち)を以ちて汝が兄(え)にあたえん時は、ひそかにこの鉤(ち)を呼びて『貧鉤(まぢち)』と曰いて、然る後にあたえたまえ」と教えた。また、潮満瓊(しおみつたま)と潮涸瓊(しおひのたま)を授けて、「潮満瓊(しおみつたま)を漬(つ)けば、潮、たちまち満つ。これを以ちて汝が兄を溺(おぼ)せ。若し兄が悔(く)いて祈(の)らば、還りて潮涸瓊(しおひのたま)を漬(つ)けば、潮、自ずから涸(ひ)ん。これを以ちて救いたまえ。如此(かく)逼(せ)め惱まさば、汝が兄は自ずから伏(したが)わん」と教えた。そして帰る時になり、豊玉姫は天孫に、「妾はすでに娠(はらみ)ぬ。まさに産(こうむ)こと久しからず。妾、必ず風・濤の急峻(はや)き日を以ちて、海濱(うみのへ)に出で到らん。請(ねが)わくは、我が為に産室(うぶや)を作りて相い持ちたまえ」と語った。

 

彦火火出見尊は元の宮に帰り、一(ひとつ)(まるごと)海神の教えに従った。すると兄の火闌降命は厄い困(なやま)されて自ら平伏し、「今より以後、吾は汝が俳優(わざおさ)の民となさん。請(ねが)わくは施恩活(いけたまえ)」と言った。そこで、その願いの通りに容赦した。その火闌降命は、吾田君(あたのきみ)小橋(おはし)等が本祖(もとつおや)である。

 

その後、豊玉姫は前(さき)の約束通り、その女弟(いろど)の玉依姫を連れて、波風に逆らって海辺にやって来る。産む時が迫ると、「妾、産(こうむ)時、幸(ねが)はくは看ること勿(なか)れ」と頼んだ。天孫が忍ぶ能(あた)わず、こっそり訪れて覘(うかが)う。豊玉姫は産もうとして龍に姿を変えていた。そして大いに恥じて、「如(も)し我を辱(はずか)しめず有れば、則ち海(うみ)陸(くが)相い通わしめて、永く隔て絶ゆること無し。今、既に辱(はずか)しめつ。まさに何を以ちてか親しく昵(むつま)じき情(こころ)を結ばんや」と言って、草(かや)で御子を包んで海辺に棄て、海途(うみぢ)を閉(とざ)してすぐに去りき。そこで、その子の名を彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と言う。その後、しばらくして彦火火出見尊が亡くなられた。日向(ひむか)の高屋山(たかやのやま)の上の陵(みささぎ)に葬りまつる、とある。

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