近年の研究
信濃国と安曇氏の関係について、近年の研究では「6世紀以降、蘇我氏が東国に屯倉の設置を進める中で、蘇我氏と深い関係にあった安曇氏が信濃国の屯倉に派遣され、地域との関係を深めた結果、後の安曇郡域に安曇部が設置された(あるいは、安曇氏は中央に留まるままで、安曇部のみが信濃と関係を深めた)」と考えられている。その根拠は、以下の通りである。
安曇氏が九州や瀬戸内海沿いには幅広く分布しているのに対し、日本海側では隠岐国と加賀国に見えるのみである上に、東日本における安曇氏は甲斐国、信濃国、美濃国といった山国に多く分布しているため、日本海側の安曇氏と瀬戸内海沿いの安曇氏は別の時期に設置・定住されたものであり、東日本の安曇氏は本来の海人集団としての性質によって移住したものではないと考えられる。
蘇我氏が白猪屯倉や児島屯倉を設置していることや、蘇我馬子が葛木県割譲を要求するための使者に阿倍摩侶と阿曇連(欠名)を選んでおり、摩侶のその後の振る舞いから安曇氏は蘇我氏と深い関係にあり、蘇我氏は安曇氏を通して屯倉経営に携わっていたと考えられる。
隠岐国においても、宗我部と安曇部、海部が多く存在している上に、海部郡には御宅郷が存在し、阿曇三雄が郡司として見え、郷域内の矢原遺跡から「多倍」と書かれた墨書土器も出土しているため、蘇我氏、安曇氏、屯倉に深い繋がりがあった。
信濃国の屯倉は文献史料上に存在を見出せないものの、千曲市の屋代遺跡からは「三家人部」「石田部」「戸田部」と記された木簡が出土している上に、屋代遺跡から千曲川を挟んだ対岸の更級郡には更埴条理遺跡が広がっており、『和名抄』によれば更級郡、埴科郡に存在した16郷は信濃国の総郷数62の約4分の1を占めており、人口の集中と生産力の高さが想定されていることから、更埴地域には屯倉が設置されていた可能性が高い。設置されていたとすれば、『和名抄』に記された埴科郡英多郷が「アガタ郷」であり、屯倉に関連した地名であると考えられる。
信濃国の安曇氏と同じく「内陸かつ東国」の安曇氏が存在した美濃国には、三家郷が確認できる。信濃国筑摩郡(現在の松本市)には、屯倉の守衛者である犬飼集団の一族・辛犬甘氏が、同じ筑摩郡の南部(現在の塩尻市宗賀地区から松本市神林地区)には崇賀郷(蘇我郷とも記される)が、それぞれ確認できる。
蘇我氏は尾張氏を屯倉管掌に当てていたが、屋代遺跡からも「尾張部」と記された木簡が出土している上に、『和名抄』には水内郡に尾張郷が見え、現在の長野市東部には「西尾張部」「北尾張部」の大字が確認できる。
安曇氏と海部
安曇氏は、『日本書紀』応神天皇3年11月条に「處々海人、訕哤之不從命。則遣阿曇連祖大濱宿禰、平其訕哤、因爲海人之宰。」とあるように、海人の暴動を抑えた功績によって「海人の宰」となったとされる。また、同天皇5年8月条には「令諸国定海部及山守部」とあり、海部の起源であるとされ同時期に海人の宰としての安曇氏と海部が成立したことから、安曇氏は海部の伴造であるとされてきた。しかし、実際に安曇氏が海人の宰領としての役割を史料上で果たすのは、推古天皇の時代である。履中天皇即位前紀には、阿曇浜子が淡路島の海人を率いているものの、これは海部ではない。
史料に見える海部は、地域によって姓が直や連、臣など、異なる姓を有しているが、これは海部の伴造となった氏族(尾張氏や吉備氏など)に由来していると考えられる。そのため、安曇氏と同族関係を結んだものもあれば、他氏族と結んだものもあると思われ、安曇氏は一部地域の海民を統括し、ヤマト政権の一環に組み入れられたことは考えられるが、全国全ての海人を管掌したわけではなく、各地の海部は安曇氏と同程度あるいはそれ以上に古くに日本各地に設定されて、設置当初から安曇氏とは関係なくヤマト王権に組み入れられていたと考えられる。
出典Wikipedia
https://www.maff.go.jp/kanto/index.html
安曇野(あずみの)を拓いたという安曇氏の起源は非常に古く、古事記には安曇族の祖先神は「綿津見命(わだつみのみこと)」とその子の「穂高見命(ほたかみのみこと)」であると書かれています。旧穂高町は安曇族の祖先神を地名としていることになります。
彼らの分布は、北九州、鳥取、大阪、京都、滋賀、愛知、岐阜、群馬、長野と広範囲にわたっており「アツミ」や「アズミ」の地名を残しています。その北限が安曇野ということになります。
博多湾(はかたわん)の志賀島(しかのしま)には、海神を祀った志賀海神社(しかうみじんじゃ)が現存し、全国の綿津見神社(わたつみじんじゃ)の総本宮となっており、安曇氏の発祥地とされています。神職は今も阿曇氏が受け継いでいます。
彼らはすぐれた航海術と稲作技術を持ち、古代の海人族の中でも最も有力な氏族でした。連(むらじ)という高い身分を大和朝廷から受け、中国や朝鮮にもたびたび渡っていたとも言われており、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いでは、安曇比羅夫(あずみのひらふ)が大軍を率いて朝鮮にわたり、陣頭指揮にあたっています。
また、788年には宮中の食事を司る長官奉膳(ぶんぜ)の地位についていることからも、安曇氏は大和朝廷を支えた有力氏族であったことがうかがえます。
彼らが、なぜこんな北の山国へ来て住み着いたのか、またどんなルートでたどり着いたのかよく分かっていませんが、おそらくは蝦夷(えぞ)の征伐が目的であり、ルートとしては
ü 北九州から日本海→姫川谷(青木湖から糸魚川に流れる川)から来たという北陸道説
ü 北九州から瀬戸内海・大阪(安曇江)経由の東山道説
ü 北九州から瀬戸内海→渥美半島(安曇族の開拓地)→天竜川を上った天竜川筋説
などがありますが、定かではありません。
安曇野へは、4~5世紀に入ったという説もあります。その時代により、ここを開拓した理由も異なってくるはずですが、今となっては謎のままです。しかし、安曇野という地名、あるいは穂高神社(ほたかじんじゃ)の存在だけでも大きな文化財を残したとも言えるでしょう。
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