2017/09/22

インダス文明(1)



インダス文明(Indus Valley civilizationは、パキスタン・インド・アフガニスタンのインダス川、および並行して流れていたとされるガッガル・ハークラー川周辺に栄えた文明である。崩壊の原因となったという説のあった川の名前にちなんでインダス文明、最初に発見された遺跡にちなんでハラッパー文明ともよばれる。

狭義のインダス文明は、紀元前2600年から紀元前1800年の間を指す。インダス文明の遺跡は、東西1500km、南北1800kmに分布し、遺跡の数は約2600におよぶ。そのうち発掘調査が行われた遺跡は、2010年時点でインド96、パキスタン47、アフガニスタン4の合計147となっている。

初期段階の文明の範囲(紀元前33002600年)
メヘルガルII期(紀元前5500 - 紀元前4800年)は、土器をともなう新石器時代である。メヘルガルIII期(紀元前4800 - 紀元前3500年)は、銅器時代後期である。メヘルガルⅣ期(紀元前3500 - 紀元前2600年)で集落が放棄された。

ハラッパーI期(紀元前3300 - 紀元前2800年、ラーヴィー期とも)には、パンジャーブ地方のラーヴィー川河岸でハラッパー文化が、ラージャスターン地方のガッガル・ハークラー川河岸でカーリバンガン文化が、それぞれ始まった。それに続くハラッパーII期(紀元前2800 - 紀元前2600年)は、シンド地方でコト・ディジ文化が始まった。狭義のインダス文明は、この統合期を指す。ハラッパーIIIA期(紀元前2600 - 紀元前2450年)、ハラッパーIIIB期(紀元前2450 - 紀元前2200年)、ハラッパーIIIC期(紀元前2200 - 紀元前1900年)の三期に区分される

滅亡
インダス文明の衰退や滅亡については、次のような諸説がある。

砂漠化説
インダス文明が存在した地域は、現在砂漠となっている。インダス文明が消えたのは、この砂漠化によるのではないかという説がある。砂漠化の原因としては、紀元前2000年前後に起こった気候変動があげられている。

大西洋に広がる低気圧帯は、一時北アフリカと同じ緯度まで南下し、さらにアラビア・ペルシア・インドにまで及んで雨をもたらし、緑豊かな土地になっていた。しかし、この低気圧帯は北上し、インドに雨をもたらしていた南西の季節風も東へ移動して、インダス文明の栄えていた土地を現在のような乾燥地帯にしてしまった、という説である。

衰退後の植物相や動物相には大きな変化が見受けられないことから、気候の変動を重視する説は見直されている。インダス文明が森林を乱伐したため、砂漠化が進行したという説もある。しかし乾燥化説については、ラクダの骨や乾地性のカタツムリが出土していること、綿の生産が行われていたことなどは、川さえあれば気温の高い乾燥ないし半乾燥地帯で文明が興りえたことを示し「排水溝」も25ミリの雨がふっただけでももたない構造であり、煉瓦を焼くにも現在遺跡の周辺で茂っている成長の早いタマリスクなどの潅木でも充分間に合ったのではないかという反論があり、決定的な説となってはいない。

河流変化説
紀元前2000年頃に地殻変動が起こり、インダス川の流路が移動したために河川交通に決定的なダメージを与えたのではないかという説。インダス遺跡はインダス川旧河道のガッカル=ハークラー涸河床沿いに分布している。

気候変動説
気候変動によって、インダス文明が衰退したとする説である。4200年前には、地中海から西アジアにかけて冬モンスーンが弱く乾燥化が起き、メソポタミアではアッカド王国崩壊の一因になったという説がある。こうしたモンスーン変動が、インダス文明の地域にも影響を与えたとされる。2012年にはアバディーン大学が中心の研究グループが発表し、2013年には京都大学が中心のグループがネパールのララ湖を調査して、3900年前から3700年前にかけて夏モンスーンが激化していたことを明らかにした。

遺跡の数はインダス文明の盛期ハラッパー文化期よりも後期ハラッパー文化期のほうが多く、規模が縮小している。これらの点から、夏モンスーンの激化がインダス川流域に洪水を起こし、インダス川流域に位置するモヘンジョダロなどの大都市から周辺への移住が起きたとする。

またインダス文明期には、海面が現在よりも2mほど高かったという調査がある。これにより遺跡の分布を調べると、インダス川流域以外のグジャラートやマクラーン海岸の遺跡の多くが海岸線に近くなる。そこで、海岸線に近いインダス文明の人々は大河によって生活するのではなく、海上交易などを行っていた海洋民であったが、海面低下により生活が変化したとする説も提唱されている。後述のように、インダス文明はメソポタミアやペルシア湾地域と交易を行っていたことが確認されている

アーリア人侵入説
インダス文明滅亡の原因は古くから論争があり、第二次大戦後にはM.ウィーラーによるアーリア人侵略説を始めとする、外部からの侵略説が唱えられた。発掘調査によって、埋葬もされずに折り重なるおびただしい人骨が確認されたために、外部からの侵入による虐殺説が唱えられた。また『リグ・ヴェーダ』などの戦争記事が、その根拠のひとつとされた。

しかし、当時の発掘調査は層位関係を考えずに地表からの深さのみを記録して行われた調査であったため、同時期の人骨ではなかった。その他、虐殺跡とされた人骨には外傷の形跡がなく、アーリア人の侵入とインダス文明衰退の年代には相違があり『リグ・ヴェーダ』の記述の史実性にも問題が指摘され、現在では否定されている。

日本においても、第2次世界大戦前にアーリアン学説を補強する学説が発表された。この説では、インダス文明は南インドを中心に暮らしているドラヴィダ人の祖先によりつくられたと推定されている。ドラヴィダ人は、紀元前13世紀に起きたアーリア人の侵入によって被支配民族となり、先住民族であるドラヴィダ族を滅ぼしてヴァルナという身分制度を作り上げたという説がある。
※Wikipedia引用

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