老子は楚の人。
隠君子として、周の図書館の司書をつとめていた。
孔子は洛陽に出向いて、彼の教えを受けている(孔子を蔑んでいた老子から、門前払いを喰わされたという説もある)
ある時、周の国勢が衰えるのを感じ、牛の背に乗って西方に向かった。
函谷関を過ぎる時、関守の尹喜(いんき、中文版)の求めに応じて、上下二巻の書を書き上げた。
それが現在に伝わる『道徳経』である。
その後、老子は関を出で、その終わりを知るものはいない。
文献学上の老子道徳経
現在の文献学では、伝説的な老子像と『道徳経』の成立過程は、少なくとも疑問視されている。
まず、老子が孔子の先輩だったという証拠はない。
伝説では老子の年は数百歳だったというが、あくまで伝説である。
前述の孔子が老子に教えを受けたという話は『荘子』に記されている。
しかし『荘子』の記述は寓話が多く、これもそのうちの一つである可能性が非常に高い。
『荘子』に度々登場している点から見て、老子の名は当時(紀元前300年前後)すでに伝説的な賢者として知られていたと推測される。
ただし、荘子以前に書物としての『老子道徳経』が存在したかは疑わしい。
『道徳経』の文体や用語は、比較的新しいとの指摘がある。
たとえば有名な「大道廃れて仁義あり」の一文があるが「仁義」の語が使われるのは孟子以降である。
一方で『韓非子』(紀元前250年前後)には『道徳経』からの引用がある(ただし、その部分については偽作説もある)。
現在、有力な説では『荘子』で言及されている伝説的な賢者の老子は『老子道徳経』の作者ではなく『道徳経』は、後の道家学派によって執筆・編纂されたものであろうということである。
『老子道徳経』は、5千数百字(伝本によって若干の違いがある)からなる。
全体は上下2篇に分かれ、上篇(道経)は「道の道とすべきは常の道に非ず(道可道、非常道)」、下篇(徳経)は「上徳は徳とせず、是を以て徳有り(上徳不徳、是以有徳)」で始まる。
『道徳経』の書名は、上下篇の最初の文句のうちから最も重要な字をとったもの。
ただし馬王堆帛書では、徳経が道経より前に来ている。
上篇37章、下篇44章、合計81章からなる。
それぞれの章は、比較的短い。
章分けはのちの注釈者によるもので、68章に分けた注釈もある。
一方で、81章より多く分けた方が文意が取りやすいとの意見もある。
『道徳経』には、固有名詞は一つも使われていないことが指摘されている。
短文でなっていること、固有名詞がないことから、道家の俚諺(ことわざ)を集めたものではないかという説がある。
上善水の如し
水は善く万物を利して而も争わず。衆人の悪む(にくむ)所に処る(おる)。故に道に幾し(ちかし)。居るには地を善しとし、心には淵き(ふかき)を善しとし、与(とも)にするには仁なるを善しとし、言は信あるを善しとし、政(まつりごと)には治むるを善しとし、事には能(のう)あるを善しとし、動くには時なるを善しとする。夫れ(それ)唯(ただ)争わず、故に尤(とが)無し。
最上の善は、水のようである。
水の善なるところは、万物に恩恵を与えて水自身は争わないところである。
水は人民が好まない低い場所にある。
その為、水は『道』に極めて近いのである。
住居を作るには善い土地を必要とし、心の内容では奥深いものを良しとし、一緒に物事をするには相手への優しい思いやりがあることを良しとする。
言葉は誠実で嘘のないものを良しとし、政治では秩序が維持されている状況を良しとし、物事においては実際の成果があることを良いとし、行動する時には時宜を得ていることを良いとする。
それらの善いものは争い合うことがない、その為に危険な間違いがないのである。
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