●最初の哲学者としてのピュタゴラス
以上のような伝承は教団の経緯を探り、その社会・文化史的意味を考察する上では大事ですが、ここでは以上の指摘にとどめ「学問の意味」という本題に戻ることにしましょう。
それに関係して、重要な逸話が一つあります。
それは、彼が始めて「フィロソフィア」という言葉を使ったという伝承で、もしこれが本当ならピュタゴラスこそソクラテスに先だって自分を「フィロソポス(愛知者・哲学者)」と名乗った最初の人ということになります。
しかし、ピュタゴラスの伝承ははっきりしないので、これを事実として彼こそが名称の上でも「最初の哲学者」だとする研究者は、あまりおりません。
ただ、この伝承に含まれている意味は大事であり、この伝承が後世の創作だとしても、少なくとも後世の人から見ればピュタゴラスの為していたことは「フィロソフィア」が確立した後のギリシャで理解されていたフィロソフィアそのものに他ならない、と評価されているということがあるからです。
この「フィロソフィア」ということで当時、一般に理解されていたのは「魂に関する事柄の考察」と「世界の原理についての考察」です。
プラトンより10歳くらい年長の弁論家イソクラテスも、先のヘロドトスの言葉と同様のことをはっきりと述べて、ピュタゴラスはエジプトに行って始めて彼等の「フィロソフィア」をギリシャに齎したが、その内容は祭儀に関わることだと言っています。
エジプトでの祭儀とは「魂に関すること」になります。
実際、ギリシャ・ローマの一般の人々の印象としては、そうした内容がイメージされていたようで、そのため「ペルシャやバビロニア、インドやエジプトにもフィロソフィアがあったし、むしろその方が先だ」と主張する人々がいることを、先に言及した紀元後2世紀の終わりか3世紀の始めころのディオゲネスも伝えています。
他方、1~2世紀頃の学説史家アエティオスは、ピュタゴラスが「フィロソフィアという名称を使った最初の人」として「数及び数の比例が原理だ」とした人と紹介しています。
ここでは「原理の学」がフィロソフィアの内容と理解されています。
アリストテレスはタレスを始めとしていましたが、イソクラテスやアエティオスの評価もやはり気になるところで、ここに「当時の人々の理解するフィロソフィア」があったのは確かでしょう。
そういうわけで、このピュタゴラスにはタレスたちにはない、何か新しいものがあったと理解できるわけで、またこのことがタレスの伝統にあるイオニア学派とは異なった「イタリア学派」と呼ばれる所以になっているのではなかろうか、とも理解できるわけです。
また、フィロソフィアというのはソクラテスによって生み出され、プラトンによって確立したものだとするなら、このピュタゴラスが「最初のフィロソポス」と評価されたということは、内容的にピュタゴラスはソクラテス・プラトンの先駆となっていたのではないかとも理解されるわけで、それは実際その通りなのでした。
さて、ピュタゴラスはこういった位置にいるのだとすると、結論的に、その思想はソクラテス・プラトンの哲学の中心であった「魂」の論と「イデア」の論に関係してくるのではないか、少なくともそうした方向が示されているだろう、と推測されます。
そして、これもその通りなのです。
ということは、ソクラテス的な「生きること」、「人間の本体としての魂」ということが問題となり、一方プラトン的なのだとすると、その思想は「数」そして「イデア」への方向を示す筈だと考えられます。
事実そうなります。
ピュタゴラスの関心は、タレスたちとは異なっていました。
タレスはエジプトで「土地の測量」に関わる規則を学び、そこから「数そのものの一般法則」といった探求の仕方をしたようでした。
こうして、どの参考書にもある実際的目的に縛られない、理性そのものの発露としての学問が生じた、という評価がなされることになりました。
それがタレスたちの仕事だったとすると、一般の教科書に紹介されている在り方、つまりタレスたちは純粋に知的好奇心を持つことのできた初めての人達で、彼等の歴史的意味は、その知的好奇心の史上初の具体的発露にあったという評価も、大筋において正しいということになります。
ところがピュタゴラスは、そうした特徴は持っていないのです。
彼にあるのは、エジプトの神職者から学んだことを、人生として生きるという場面の思想に仕立て上げることでした。
ここに生きる意味を追及するという意識的・自覚的な営みが始められることになったのです。
ソクラテス的哲学の先駆です。
一方、「数」の方も、いわゆる「体系的数学」というより、むしろその原理性がクローズ・アップされるのであり、これはまたプラトンでも同様で、プラトンでの数学の重視というのは数学体系の研究を意味するのではなく、数というものの持つ性格そのものが重要だったのです。
ここに「学問はいかにして生じたのか」という問題に、二つ目の局面があったことになります。
すなわち、生きることの意味を問い、その場面で世界の原理を問うというピユタゴラスから、ソクラテス・プラトンへと引き継がれる哲学の局面です。
ここでは、生きるということを「神のせい」のままにしてしまうという態度はありません。
これが大事なのです。
エジプトの祭儀が、ピュタゴラスに深刻な影響を与えたことは分かっているのに、現代の哲学史家がエジプトに哲学があったと評価していない理由は、ここにあるのです。
祭儀はあくまでも祭儀でしかなく、その限り「それに従っている」というだけのことです。
ギリシャ人が変わっていた点は、タレスのところでも指摘しておきましたが、その段階にとどまることをせず、理性で納得しよう、知として理解しようという態度を持ったことで、ここでもその姿勢が示されてくるのです。
※ http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html 引用
0 件のコメント:
コメントを投稿