タレスから始まる自然学の継承は、後にその地方の名をとってイオニア学派と呼ばれたわけですが、これは同時に自然学者たちにもう一つ別の系統がある、という理解からです。
そのもう一つの系統のことを「イタリア学派」といいますが、もちろんその活動の舞台がイタリア地方のギリシャ都市にあったから、という理由からです。
その始めの人とされるのが「ピュタゴラス」で、彼は実際タレスたちとはかなり違っていました。
第一「ピュタゴラス」などと全部分かった人のような名前で言っていますが、この人は確かに実在はしたようなのですが、一つの「神秘宗教集団の教祖」なのでした。
「教祖」というのが一体にそうであるように、彼も秘密のベールに包まれることが多く、また、その集団の思想はすべて教祖一人のものとされてしまう傾向があり、ピュタゴラス個人の思想として何が言えるのか、かなり疑問のところがあるのです。
しかも、このピュタゴラスの教団は興亡はあったものの、かなり長い歴史を持つことになり、ローマ時代にも興隆したりするので、後世の思想までピュタゴラスのものとされてしまっている可能性すらあるのです。
しかし神秘宗教団体という性格から、それを整理するのは殆ど不可能で、結局ピュタゴラス一人の思想ということで紹介せざるをえないのが現状です。
●ピュタゴラスの伝承
彼は紀元前570年頃、タレスたちの故郷ミレトスに近いサモス島に生まれたのですが、530年頃故郷を去って南イタリアのクロトンという、ギリシャ都市に移り住んだと言われます。
●ピュタゴラスの伝承
彼は紀元前570年頃、タレスたちの故郷ミレトスに近いサモス島に生まれたのですが、530年頃故郷を去って南イタリアのクロトンという、ギリシャ都市に移り住んだと言われます。
ですから、確かに活動はイタリア地方ではあっても、イオニア地方の血は引いていたわけです。
もっとも、クロトン行きまでずっとサモスにいたわけではなく、伝承によるとエジプトに行って、そこで祭儀にかかわる事柄などを学んだと言われます。
ヘロドトスなどは、ピュタゴラスと名指しこそしていませんが暗に彼を指し「その魂に関する教説は独創的なものではなく、エジプトのものだ」とまで言っています。
これは確かに両者に類似性があるので、あり得る見解です。
当時のイオニア地方は、エジプトとの交流が盛んであったようで、タレスもエジプトに行っているようですから、ピュタゴラスが行っていても何等不思議ではなく、むしろ可能性は非常に高いでしょう。
そして、一度はサモスに戻ってきたのですが、その故郷が独裁政治になっているのを見てクロトンへと出ていった、と言われています。
そして、その地で自分の教団を結成したようなのですが、どうも一般に言われるような、ただの宗教教団であったわけではないようで、ピュタゴラスはこのクロトン市のために法律を制定し、300人ばかりの弟子たちと共にその地をよく治めて名声を得、そのためこの地の国政は「優れた人々の統治」と言われたとの伝承があります。
ピユタゴラスは、このクロトンで平和にいられたわけでもないようで、20年くらいここにあった後、メタポンティオンに引き移り、そこで死んだといわれます。
この死についてもいろいろ伝承がありますが、たとえば弟子入りを断られた男の恨みをかって襲われたとか、あるいは彼の評判が高すぎたため独裁的になるのを恐れ、クロトンの人々が襲ったとか(この伝承では、そこでピュタゴラスは逃げ出したが、ソラ豆の畑に行く手を阻まれ、畑を台無しにしてはならないと逃げるのをやめ、そこで殺されたという)、あるいは文芸の女神であるミューズの女神の神殿に逃げ込み、そこで40日間の絶食のため死んだとか、クロトンの人々に絶望して引退し、メタポンティオンに行きその地で失望のあまり絶食して死んだとか色々で、一方では彼の死後もその賛美はやまず、ついに彼の家が神殿にされた、とも言われています。
あるいは、ピュタゴラスが留守の時、かつてピュタゴラスに弟子入りを断られた、金持ちで暴力的・独裁的で品性の卑しいキュロンという男が教団に敵意を持ち、徒党を組んで教団を焼き討ちしたという事件も伝えられています。
こんなこともあって、ピュタゴラスはメタポンティオンに引っ込んでしまった、と言われているのです。
ともあれ、ピュタゴラスのいたクロトンや南イタリアはその当時、様々な社会的動乱もあったようでした。
※ http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html 引用
※ http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html 引用
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