駿河国とは、7世紀に朝廷が珠流河国造(現在の静岡県東部)に廬原国造(現在の静岡県中部)の領域と併せて駿河国とした。
※この時点では伊豆半島と伊豆諸島(後に再度分離して伊豆国となる)を含んでいた。
駿河は当初、須流加(和名類聚抄)、須留可(東遊駿河舞歌)、薦河(駿河国風土記)などとも表記され、尖川ないし駿馬の如きつまり、山から海に落ちる険しい川の意図をもって命名されたと言われる。即ち富士川があり、その急峻であることに由来するというものである。
「スルガ」の語源については、富士山・愛鷹(あしたか)山麓(さんろく)に自生するヤマトリカブトのアイヌ語「スルグラ」に由来するという説もあるが、流れが速く鋭い富士川にちなんだものともいう。
出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
駿河(するが)国は、静岡県の大井川以東、狩野川以西に位置し、西は遠江国、北は信濃国、甲斐国、東は相模国、南は伊豆国および駿河湾に接します。古くは伊豆国を含み、珠流河国造、廬原(いおはら)国造および伊豆国造が治めていた地域と考えられます。
はじめは9郡でしたが、天武9(680)年田方、賀茂の2郡を分けて伊豆国が建てられ、志太、益頭、有度、安倍、廬原、冨士、駿河の7郡となりました。国府ははじめ駿河郡(現沼津市)にありましたが、伊豆国分置に伴い安倍郡(現静岡市)に移されました。『和名抄』は、「須流加(するか)」と訓じます。
国名は、古くは珠流河、須流加、州流加、薦河、尖河、尖蛾、仙河などとも書き、その由来は「富士川の流れが川辺をゆする河(『駿河名義』)、「富士川の流れが速くするどい川と(尖河(するとかわ)の転)」(『諸国名義考』)、「滑所(しると。沼沢)の転」(『駿河国新風土記』)、「州寄処(すよか)で波が押し寄せる国」(同上)、「州処(スカ。砂州のあるところ)の転で須賀と同義」(吉田東伍)、「富士山・愛鷹山麓に自生するヤマトリカブトのアイヌ語名「スルグラ」から」などの諸説があります。
この「するか」は、「ツ・ル(ン)ガ」、TU-RUNGA(tu=stand,settle;runga=the top,upwards,the south)、「最も高い山(富士山)が・ある(地域。国)」または「(富士山の)南に・位置する(地域。国)」(「ル(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ルガ」となった)の転訛と解します。
また、越前国敦賀(つるが)も、同じ語源で、「(越の国の)南(端)に位置する(場所)」と解します。『和名抄』は敦賀郡を「都留我(つるが)」と訓じています。越の国は、4~5世紀には加賀・能登をふくめた越前の地域でしたが、6世紀には越中の地域が含まれるようになり、7世紀には越後の地域まで拡大されたとされます。
なお、駿河国の「するが」は、インドネシア語の「SURGA、楽園、天国」が語源ではないかという説(茂在寅男『古代日本の航海術』小学館創造選書、1979年)があります。マレー語でも「SYURGA,SORGA、heaven、天国」ですが、この語はサンスクリット語源とされています(MALAY-ENGLISH/ENGLISH-MALAY
DICTIONARY,A.E.Coope,HIPPOCRENE BOOKS,New York,1993)。
マレー語、インドネシア語にこのサンスクリット語が入った時期は不明ですが、現代マオリ語や現代ハワイ語にこの語に相当する語が見あたらないことからみて、原ポリネシア語が西部オーストロネシア地域に拡散した時点(紀元前4千年ないし2千5百年前)よりも、かなり後になつてマレー語、インドネシア語に入ったものと考えられます。
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