2017/08/10

古代エジプト(2)



●エジプト古王国時代(第3 - 6王朝)
紀元前2686年頃成立したエジプト第3王朝からは、エジプト古王国期と呼ばれ、エジプト最初の繁栄期に入る。

首都は、一貫してメンフィスに置かれた。

古王国時代には中央政権が安定し、強力な王権が成立していた。

このことを示すのが、紀元前2650年頃に第3王朝第2代の王であるジョセル王が建設した階段ピラミッドである。

このピラミッドは、当初それまでの一般的な墓の形式であったマスタバで建設されたが、宰相イムホテプによる数度の設計変更を経て、最終的にマスタバを6段積み重ねたような階段状の王墓となった。

これがエジプト史上最古のピラミッドとされる、ジェゼル王のピラミッドである。

このピラミッドは、以後の王墓建設に巨大な影響を与え、以後マスタバに代わりピラミッドが王墓の中心的な形式となった。

紀元前2613年にはスネフェルが即位し、エジプト第4王朝が始まる。

この第4王朝期には経済が成長し、またピラミッドの建設が最盛期を迎えた。

スネフェル王は、紀元前2600年頃にヌビア、リビュア、シナイに遠征隊を派遣して勢力範囲を広げる一方、まず屈折ピラミッドを、さらに世界初の真正ピラミッドである赤いピラミッドを建設した。

スネフェルの次の王であるクフの時代にピラミッド建設は頂点を迎え、世界最大のピラミッドであるギザの大ピラミッドが建設された

その後、クフの2代後にあたるカフラー王が、カフラー王のピラミッドとその門前にあるギザの大スフィンクスを建造し、さらにその次のメンカウラー王がメンカウラー王のピラミッドを建設し、ピラミッドの建設は頂点に達した。

この3つのピラミッドは三大ピラミッドと呼ばれ、エジプト古王国時代を代表する建造物となっている


この後、エジプト第5王朝に入ると経済は引き続き繁栄していたものの、ピラミッドの意味が変質して、クフ王時代のような巨大な石造りのものを建てられることはなくなり、材料も日干しレンガを使用したことで耐久性の低いものとなった。

続くエジプト第6王朝も長い安定の時期を保ったが、紀元前2383年に即位し94年間在位したペピ2世の治世中期より、各地の州(セパアト、ギリシア語ではノモスと呼ばれる)に拠る州侯たちの勢力が増大し、中央政府の統制力は失われていった。

紀元前2184年にペピ2世が崩御したころには、中央政権の統治は有名無実なものとなっており、紀元前2181年に第6王朝が崩壊したことにより古王国時代は終焉した。

●エジプト第1中間期(第7 - 10王朝)
6王朝崩壊後、首都メンフィスにはエジプト第7王朝、エジプト第8王朝という短命で無力な後継王朝が続いたが、実際には各地の州侯たちによる内乱状態が続いていた。

この混乱の時代を総称し、第1中間期と呼ぶ。

やがて上エジプト北部のヘラクレオポリスに興ったエジプト第9王朝が、エジプト北部を制圧したものの全土を統一することはできず、上エジプト南部のテーベに勃興したエジプト第11王朝との南北対立の情勢となった。

●エジプト中王国時代(第11 - 12王朝)
紀元前2060年頃に第11王朝にメンチュヘテプ2世が即位すると、紀元前2040年頃に第9王朝の後継であるエジプト第10王朝を打倒してエジプトを再び統一し、エジプト中王国時代が始まった。

首都は、引き続きテーベにおかれた。

また中王国期に入るとピラミッドの造営も復活したが、第4王朝期のような壮大なピラミッドはもはや建造されず、日干しレンガを多用したものが主となった。

紀元前1991年頃には、アメンエムハト1世によってエジプト第12王朝が開かれ、首都もメンフィス近郊のイチ・タウィへと遷した。

12王朝期は長い平和が続き、国内の開発も急速に進んだ。

特に歴代の王が力を注いだのは、ナイル川の支流が注ぎこむ広大な沼沢地であったファイユーム盆地の開発であり、センウセルト2世の時代に着工した干拓工事は王朝後期のアメンエムハト3世時代に完成し、ファイユームは広大な穀倉地帯となった。

センウセレト2世は、紀元前1900年頃にアル・ラフーンにピラミッド(ラフーンのピラミッド)を造営している。

中王国はヌビアに対するものを除き対外遠征をあまり行わず、とくにシリア方面には軍事進出を行わなかったが、唯一の例外として紀元前1850年頃にセンウセレト3世が、ヌビアおよびシリアに遠征した。

センウセレト3世は名君として知られており、国内においては州侯の勢力を削ぎ、行政改革を行って国王の権力を拡大している。

続くアメンエムハト3世期にも政権は安定しており、紀元前1800年頃にはファイユーム盆地の開発が完成し、またハワーラのピラミッドが造営されている。 

しかし彼の死後は短命な政権が続き、紀元前1782年頃には第12王朝が崩壊して中王国期も終焉を迎えた。

●エジプト第2中間期(第13 - 17王朝)
12王朝からエジプト第13王朝への継承はスムーズに行われ、制度その他もそのまま引き継がれたものの、王朝の統治力は急速に弱体化していった。

この時期以降、エジプト第2中間期と呼ばれる混乱期にエジプトは突入していく。

まず第13王朝期にはヌビアがエジプトから独立し、ついでエジプト第14王朝など幾つかの小諸侯が各地に分立したが、やがて紀元前1663年頃にはパレスチナ方面からやってきたとされるヒクソスという異民族によってエジプト第15王朝が立てられ、各地の小諸侯を従属させて覇権を確立した。

下エジプトのアヴァリスに拠点を置いていた第15王朝に対し、一時は従属していたテーベを中心とする勢力がエジプト第17王朝として独立し、南北分立の体制となった。

また、第15王朝は下エジプトのみならず、隣接するパレスチナも自らの勢力圏としていた。
※Wikipedia引用

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