4 日本人はダシに対して強い嗜好を持っている。
ほとんどの日本人が、昆布とカツオのダシの味と風味をおいしく感じる。しかし、日本以外の国の人々は余り好まない傾向がある。昆布の海洋臭やカツオの魚臭は、欧米では嫌われやすい風味である。昆布鰹だしが世界に広まらない理由は、この風味に対する違和感にある。
ダシのうま味は動物に先天的に好まれる味であり、世界中の人々が好む味と言える。一方、ダシの風味は嗅覚であり、風味の好き嫌いは食体験によって後天的に決まる。
日本の昆布・鰹ダシの味わいは、世界中で好まれるグローバルなうま味と、日本人が好むカツオと昆布の匂いが合体したものである。匂いを好きになるためには、幼児期からの繰り返しの摂取が重要であることが明らかになっている。
食品の味わいの中には、ほとんどの人がおいしいと感じるほど強いインパクトを持つものがある。油脂や砂糖がその代表である。日本の鰹ダシにも、同じ様なやみつきにさせる作用がある。薬理学的な検討から、脂肪や砂糖に対するやみつきと、ダシ溶液に対するやみつきとはメカニズムが同じであった。油脂の場合と同じく、香りの豊かなダシに対しては、おいしさに関わる脳内報酬系の快感が働いているものと推定できる。
うま味と香りの豊かなダシに対して、動物が強い嗜好性を持つことが明らかになっている。動物行動科学実験では、食用油脂や砂糖の報酬効果(強化効果)が示唆されている。同じ実験方法で、「鰹ダシの風味を添加したデンプン溶液」で検討したところ、マウスは鰹だしの風味にやみつきになった。うま味単体に対しては、動物はやみつきにならないが、ダシの匂いのような嗅覚の共存が嗜好性を高めるようである。動物はおそらく、食体験の記憶の影響が人間ほど絶対的ではなく、ダシの匂いに対する違和感が弱いと思われる。一方、日本人は後天的な匂いの学習によって、伝統的なダシの味わいを好きになるのであろう。
5
魚の生食:別格とも言える刺身の嗜好
日本の代表的な料理に魚介類の刺身がある。味の素「嗜好調査」の結果からも、刺身はどの世代の国民にとっても最も好ましい別格とも言える食材である。
日本人は魚を生で食べると世界中に紹介されるが、その表現は正確ではない。魚介類を生で食するのは、非常に限られた鮮度条件のもとでのみ行われる。刺身には非常に新鮮な食材だけが厳選されて用いられるため、刺身として食することができる食材というのは市場でも特別な価値を有し珍重される。刺身にできる魚介類は、かつては漁港周辺の地域でしか手に入らなかった。現在でも、鮮度を維持するための特殊な流通を介さねば入手は容易ではない。鮮度が低下した魚介類は刺身には使われない。それ故、刺身として使える魚は一般に高値で取引される。
刺身の味わいは、生肉特有の風味と歯ごたえが重要である。新鮮な魚介類には、調理した魚に特有の臭みがほとんど感じられない。最も新鮮なものは、まだ魚が生きている状態または死後間もないものを食べる「活け造り」である。魚の筋肉は反射によって動くことが多い。蛸やイカ、エビ、貝なども生きた状態で調理されることがある。
6
刺身の味と風味
刺身は、食材を自然のまま、素材のまま生で味わう料理の代表格と捉えられている。そのため、刺身のおいしさ表現には、歯ごたえ等の食感がしばしば使われる。醤油とわさびで食べられることが多く、味や風味についての表現は豊富ではない。
川端晶子「文学作品・エッセイに見られる“魚介のおいしさ表現”(食の科学2005)によると、文学作品中でも刺身のおいしさには食感に触れた表現が多い。しかしながら刺身の味わいには、醤油やわさびでは失われない生の魚の独特の匂い、油の旨味、新鮮な魚肉固有のうま味などが豊かである。吉田健一「舌鼓ところどころ」では、瀬戸内の鯛を刺身にした味を「無限に複雑なもの、或いは豊富なものが感じられる」(川端、食の科学から引用)という表現がある。
刺身の味わいは、魚ではグルタミン酸、ヒスチジンなどのアミノ酸類にイノシン酸などの核酸のうま味が加わったものである。カニや貝類などでは、核酸の一種であるアデニル酸のうま味が重要である。刺身の味わいには、塩分や醤油が必要である。塩分は旨味を非常に強化する作用があり、塩分なしでは旨味が弱くいため、醤油や塩なしで刺身が食されることは通常はない。カニなども塩分がないとカニらしい独特の味わいが感じられない。
魚のうま味のうち、アミノ酸類は死後も安定であり濃度が大きく変化することはない。むしろ、イノシン酸の濃度が死後に変動することでうま味の強さが変わる。活け造りなど鮮度の良い魚では、食感はよいがうま味が弱いとされる。そのため、鯛やヒラメ、などの白い肉質の魚は、死後しばらく低温で放置されることがある。この間にイノシン酸の量が増す。さらに肉に滲出してきた液によってうま味が増す。
しかし、死後時間がたちすぎると、後述する食感の好ましさが低下し、魚特有の好ましくない風味(匂い)が増すので、魚によって適当な時間が選ばれる。一般的にはヒラメやタイは死後10−12時間後が、うま味と食感のバランスがよいとされる。ただし、最適時間は貯蔵温度や致死の状況によって変化する。代表的な刺身の魚であるマグロも、死後直後の堅い肉よりも、やや柔らかくなった頃が好ましいとされる。うま味それを含む浸出液の増加によるものである。
7
刺身の食感
刺身は鮮度が重要と考えられている。魚の鮮度は食感に最も影響する。新鮮な魚は歯ごたえが強い。しかし、魚の肉の固さと魚体の硬直とは一致しないので、注意が必要である。一般に死後しばらくの間は魚体は柔らかいが、肉には弾力がある。氷蔵すると8時間程度で死後硬直が現れて魚体は非常に固くなるが、肉の歯ごたえは逆に低下する。
日本人が好む新鮮な魚の肉の弾力は、死後硬直期に入った魚ではなくて、それ以前の魚体がまだ柔らかい頃である。人間の歯ごたえに近い弾力の物理指標である破断強度は、死後硬直以前の魚体が柔らかい間の魚肉で最も大きい値を示す。時間がたって魚体が硬直すると、後肉の破断強度の数値はむしろ低下し、歯ごたえも低下する。筋肉繊維を支えるコラーゲンの分解によって、歯ごたえが失われるためである。
(参考文献 坂口守彦;とびきり新鮮な刺身は本当においしいか「旨さ極める」かもがわ出版 14-32頁 2002年)
新鮮な魚は非常に価値が高い。魚の鮮度維持に関して多大な努力が払われているからである。例えば、京料理で多用されるアカアマダイ(若狭ぐじ)は美味であるが、鮮度が低下しやすい魚である。アカアマダイの貯蔵・輸送中の鮮度についての研究から、50時間後も極めて髙鮮度と評価できるのは0度で貯蔵されたときのみで、10度になると20時間で鮮度は一段下の「良鮮度」のランクに低下する。15度の貯蔵では、20時間で良鮮度とも呼べなくなる。この時、イノシン酸が分解してうま味のないヒポキサンチンが生じ、旨さも著しく低下する。
鮮度が低下しやすい魚では、船上でのしめ方(殺し方)が重要になる。魚が死ぬとやがて死後硬直が始まり、鮮度低下が始まる。死に至るまでに、脳だけが働きながらも全身の活動が低下した状態をできるだけ長く維持することが、鮮度を保つために重要と考えられる。脳と末梢の境界部位にある延髄を壊し、活きたまま全身を麻痺させる「活けしめ」の実施や氷水に5分間ほど投入して仮死させるなど、死後硬直開始時間を遅延させることで、味や食感に影響する鮮度が保てる。(赤羽義章 京の魚おいしさの秘密をさぐる、おいしさの科学 2009年33-42頁)
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