2017/08/29

古代エジプト(5)

社会
古代エジプトの主食はコムギから作るパンであり、エジプト人は「パン食い人」と呼ばれるほど大量のパンを食べた。

また、サワードウによる発酵パンが誕生したのもエジプトである。

紀元前3800年頃に大麦から作るビールの生産が始まり、紀元前3500年頃にワインの生産が始まった。

ワインブドウは麦と違い外来作物であり、ワインは高貴な酒で一般市民はビールを飲んだが、後に生産量が増えて市民にも広まった。

ビールはアルコール分が低く、パンと並んで主要な食物とされており、大量に生産・消費された。

ファラオは神権により支配した皇帝で、僅かな例外を除き男性。

継承権は第一皇女にあり、したがって第一皇女の夫がファラオになる。

名前の一部には、神の名前が含まれた。

人口の1%程度の少ない貴族階級が土地を所有し支配していた。

残る99%である、殆どの平民は小作だった。

ファラオによって土地を与えられることにより貴族となるが、ファラオが交替したり王朝が変わると土地を取り上げられ貴族ではなくなる事も多く、貴族は必ずしも安定した地位にあるわけではなかった。

1日を24時間としたのは、エジプトだと言われている

農業
古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスが「エジプトはナイル川の賜物」という言葉を『歴史』に記しているとおり、古代エジプトの主要産業である農業はナイル川の氾濫に多くを負っていた。

ナイル川は6月ごろ、エチオピア高原に降るモンスーンの影響で氾濫を起こす。

この氾濫は水位の上下はあれど、氾濫が起きないことは殆どなかった上、鉄砲水のような急激な水位上昇もほぼなく、毎年決まった時期に穏やかに増水が起こった。

この氾濫は、エチオピア高原から流れてきた肥沃な土壌を氾濫原に蓄積させ、10月ごろに引いていく。

これによりエジプトは肥料の必要もなく、毎年更新される農耕に適した肥沃な土壌が得られた。

浅い水路を掘り、洪水時の水を溜めていたこの方式はベイスン灌漑方式と呼ばれ、19世紀に至るまでエジプトの耕作方法であり続けた。

作物は大麦と小麦が中心で、野菜ではタマネギ、ニンニク、ニラ、ラディッシュ、レタスなどが主に栽培された。

豆類ではソラマメ、ヒヨコ豆、果実ではブドウ、ナツメヤシ、イチジク、ザクロなどがあった。

外国から伝わった作物としては、新王国時代にリンゴ、プラム、オリーブ、スイカ、メロン。

プトレマイオス朝時代には、モモ、ナシなどが栽培された。

古王国時代から中央集権の管理下に置かれ、水利監督官は洪水の水位によって収穫量を予測した。

耕地面積や収穫量は記録され、収穫量を元に徴税が行われて国庫に貯蔵され、食料不足の際には再配分された。

農民の大部分は農奴であったが、新王国時代になると報酬によって雇われる農民や、自立農民が増加した。
 
対外関係と交易
エジプト本国はナイル川の領域に限られており、それ以外の地域は基本的にすべて外国とみなされていた

ナイル川流域でも、エレファンティネ(アスワン)の南にある第一急流によって船の遡上が阻害されるため、それより南は外国とみなされていた。

この南の地域はヌビアと総称され、古王国以降の歴代王朝は度々侵攻し徐々に支配地域を南下させていったものの、動乱期になるとこの地域は再び独立し、統一期になると再びエジプトの支配下に入ることを繰り返した。

この過程で、ヌビア地方はエジプトの強い影響を受け、のちに成立したクシュ王国においても、ピラミッドの建設(ヌビアのピラミッド)を始めとするエジプト文化の影響が各所にみられる。

ヌビア以外の諸外国については、中王国時代までは積極的な侵攻をかけることは殆どなく、交易関係に留まっていたものの、新王国期に入るとヒクソスの地盤であったパレスチナ地方への侵攻を皮切りに、パレスチナやシリア地方の小国群の支配権をめぐり、ミタンニやヒッタイト、バビロニアなどの諸国と抗争を繰り広げるようになった。

また、古王国期から新王国期末までの期間は、アフリカ東部にあったと推定されているプント国と盛んに交易を行い、乳香や没薬、象牙などを輸入していた。

エジプトの主要交易品と言えば金であった。

金は上エジプトのコプトスより東に延びるワディ・ハンママート周辺や、ヌビアのワワトやクシュから産出された。

この豊富な金を背景にエジプトは盛んに交易を行い、国内において乏しい木材・鉱物資源を手に入れるため、銅、鉄、木材(レバノン杉)、瑠璃などをシリア、パレスチナ、エチオピア、イラク、イラン、アナトリア、アフガニスタン等から輸入していた。

特に造船材料として必須である木材は国内で全く産出せず、良材であるレバノン杉を産するフェニキアのビブロスなどからの輸入に頼っていた。

ビブロスは中王国期には、エジプト向けの交易の主要拠点となり、当時エジプト人は海外交易船を総称しビブロス船と呼んだ。

ビブロスからはまた、キプロスから産出される豊富な銅もエジプトに向け出荷されていた。

このほかクレタ島のミノア文明も、エジプトと盛んに交易を行っていた。

下エジプト東端からパレスチナ方面には、ホルスの道と呼ばれる交易路が地中海沿いに伸びており、陸路の交易路の中心となっていた。

紅海沿いには、中王国期以降エジプトの支配する港が存在し、上エジプトのナイル屈曲部から東へ、砂漠の中を延びるルートによって結ばれていた。

この紅海の港を通じ、プントやインド洋沿海諸国との交易が行われた。
※Wikipedia引用

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