2017/08/25

古代エジプト(4)



エジプト第3中間期(大司祭国家、第21 - 26王朝)
20王朝末期にはテーベを中心とするアメン神官団が勢力を増していき、紀元前1080年頃にはアメン神官団の長ヘリホルがテーベに神権国家(アメン大司祭国家)を立てたことで、エジプトは再び南北に分裂することとなった。

紀元前1069年に成立した第21王朝は、首都をペル・ラムセスからタニスへと移し、アメン大司祭国家に名目的な宗主権を及ぼした。

紀元前945年には、リビュア人傭兵の子孫であるシェションク1世が下エジプトに第22王朝を開き、アメン大司祭国家を併合して再統一を果たすが、その後は再びアメン大司祭が独立したほか、下エジプトに5人の王が分立するなど混乱を極めた。

こうした中、エジプトの強い文化的影響を受けていた南のヌビアが勢力を拡大し、紀元前747年にはピアンキがヌビアから進撃してエジプト全土を制圧し、第25王朝を開いた。

その後、メソポタミアに強力な帝国を築いたアッシリアの圧迫に晒され、紀元前671年にはアッシリア王エセルハドンの侵入を受け、下エジプトが陥落。

一時奪回に成功したものの、紀元前663年にアッシュールバニパル王率いるアッシリア軍にテーベを落とされ、第25王朝のヌビア人はヌビアへと撤退した。

エジプト末期王朝(第27 - 31王朝)
アッシュールバニパルは、サイスを支配していたネコ1世にエジプト統治を委任し間接統治を行った。

この王朝を第26王朝と呼ぶ。

26王朝は当初はアッシリアの従属王朝であったが、アッシリアの急速な衰退に伴い自立の度を深め、紀元前655年にはネコ1世の子であるプサメティコス1世が、アッシリアからの独立を果たす。

これ以後は末期王朝時代と呼ばれ、また第26王朝は首都の名からサイス朝とも呼ばれる。

その後、アッシリアは滅亡し、その遺領はエジプト、新バビロニア、リディア、メディアの4つの王朝によって分割された。

プサメティコス1世の次のネコ2世は、パレスチナ・シリア地方へと進出したものの、紀元前605年、カルケミシュの戦いで新バビロニアのネブカドネザル2世に敗れ、この進出は頓挫した。

サイス朝時代のエジプトは、シリアをめぐって新バビロニアと小競り合いを繰り返しながらも、上記のオリエント4大国のひとつとして大きな勢力を持った。

紀元前550年、メディアを滅ぼしたアケメネス朝のキュロス2世が急速に勢力を伸ばし、リディアおよび新バビロニアが滅ぼされるとそれに圧倒され、紀元前525年にはプサメティコス3世がアケメネス朝のカンビュセス2世に敗れ、エジプトはペルシアによって征服された。

ペルシアのエジプト支配は121年間に及び第27王朝と呼ぶが、歴代のペルシア王の多くはエジプトの文化に干渉しなかった。

しかしダレイオス2世の死後、王位継承争いによってペルシアの統治が緩むと、サイスに勢力を持っていたアミルタイオスが反乱を起こし、紀元前404年にはペルシアから再び独立を達成した。

これが第28王朝である。

28王朝はアミルタイオス一代で滅び、次いで紀元前397年から紀元前378年にかけては第29王朝が、紀元前378年からは第30王朝が立てられ、約60年間にわたってエジプトは独立を維持したが、東方を統一する大帝国であるアケメネス朝は常にエジプトの再征服を狙っており、それに怯えながらの不安定な政情が続いた。

そして紀元前341年、アケメネス朝のアルタクセルクセス3世の軍勢に最後のエジプト人ファラオであるネクタネボ2世が敗れ、エジプトはペルシアに再征服された。

アルタクセルクセス3世はエジプトの信仰を弾圧し、圧政を敷いた。

プトレマイオス朝
このペルシアの圧政は10年間しか継続せず、紀元前332年、マケドニア王のアレクサンドロス3世がエジプトへと侵攻し、占領された。

アレクサンドロスがペルシアを滅ぼすと、エジプトもそのままアレクサンドロス帝国の一地方となったが、紀元前323年にアレクサンドロス3世が死去すると後継者たちによってディアドコイ戦争が勃発し、王国は分裂した。

この混乱の中で、ディアドコイの一人であるプトレマイオスがこの地に拠って勢力を拡大し、紀元前305年にはプトレマイオス1世として即位することで、古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝が建国された

この王朝はセレウコス朝シリア王国、アンティゴノス朝マケドニア王国と並ぶヘレニズム3王国のひとつであり、国王および王朝の中枢はギリシャ人によって占められていた。

プトレマイオス1世は、首都をアレクサンドロスによって建設された海港都市であるアレクサンドリアに置き、国制を整え、またムセイオンおよびアレクサンドリア図書館を建設して学術を振興するなどの善政を敷いた。

続くプトレマイオス2世、およびプトレマイオス3世の時代にも繁栄が続いたが、その後は暗愚な王と政局の混乱が続き、またシリアを巡るセレウコス朝との6回に渡るシリア戦争など、打ち続く戦争によって国力は疲弊していった。

紀元前80年には、プトレマイオス11世が殺されたことで王家の直系が断絶し、以後は勢力を増していく共和政ローマの影響力が増大していくこととなった。

紀元前51年に即位したクレオパトラ7は、ガイウス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスといったローマの有力者たちと誼を通じることでエジプトの存続を図ったが、紀元前31年にオクタウィアヌス率いるローマ軍にアクティウムの海戦で敗北し、紀元前30年にアレクサンドリアが陥落。

クレオパトラ7世は自殺し、プトレマイオス朝は滅亡した。

これによりエジプトの独立王朝時代は終焉し、以後はローマの皇帝属州アエギュプトゥスとなった。
※Wikipedia引用

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