2017/08/15

古代エジプト(3)

●エジプト新王国時代(第18 - 20王朝)
紀元前1540年頃、上エジプトを支配していた第17王朝のイアフメス1世がヒクソスを放逐して南北エジプトを再統一し、エジプト新王国時代が始まった。

イアフメス1世は第17王朝の王であるが、エジプト統一という一大画期があるため、連続した王朝にもかかわらず、これ以後の王朝は慣例としてエジプト第18王朝と呼ばれる。

イアフメス1世は、さらにヒクソスを追ってパレスチナへと侵攻し、第15王朝を完全に滅ぼした。

これが嚆矢となり、以後のエジプト歴代王朝は、それまでの古王国期や中王国期と異なりパレスティナ・シリア方面へと積極的に進出するようになり、ナイル川流域を越えた大帝国を建設するようになっていった。

このため、新王国時代は「帝国時代」とも呼ばれる。

首都は統一前と同じく、引き続きテーベにおかれた。

イアフメス1世は、さらに南のヌビアにも再進出し、この地方を再びエジプトの支配下に組み入れた。

次のアメンヘテプ1世は、カルナック神殿の拡張などの内政に力を入れた。

紀元前1524年頃に即位したトトメス1世は、この国力の伸長を背景に積極的な外征を行い、ティグリス・ユーフラテス川上流部を地盤とする大国ミタンニへと侵攻し、ユーフラテス河畔の重要都市カルケミシュまで侵攻して、その地に境界石を建立した。

また彼は陵墓の地として王家の谷を開発し、以後新王国時代の王の殆どはこの地へと埋葬された。

次のトトメス2世は早世したため、紀元前1479年頃に子のトトメス3世が即位したものの若年であったため、実際には共治王として即位したトトメス2世の王妃であるハトシェプストが実権を握り、統治を行っていた。

ハトシェプストは遠征よりも内政や交易を重視し、この時代にプントとの交易が再開され、またクレタなどとの交易も拡大したが、一方で遠征を行わなかったため、ミタンニとの勢力圏の境界にあるシリア・パレスチナ地方の諸国が次々と離反していった。

紀元前1458年頃にハトシェプストが退位すると、実権を握ったトトメス3世は打って変わってアジアへの積極的な遠征を行い、メギドの戦いなど数々の戦いで勝利を収めて国威を回復させた。

続くアメンホテプ2世、トトメス4世、アメンホテプ3世の時代にも繁栄はそのまま維持され、エジプトの国力は絶頂期を迎えた。

このころには、元々テーベ市の守護神であった主神アメンを奉じる神官勢力の伸長が著しくなっており、王家と徐々に衝突するようになっていた。

こうしたことから、次のアメンホテプ4世は紀元前1346年ごろにアクエンアテンと名乗って、伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止、アメン信仰の中心地である首都テーベからアマルナへと遷都し、太陽神アテンの一神崇拝に改める、いわゆるアマルナ宗教改革を行った。

このアテン信仰は世界最初の一神教といわれ、アマルナ美術と呼ばれる美術が花開いたが、国内の統治に集中して戦闘を避けたため、当時勢力を伸ばしつつあったヒッタイトにシリア・パレスチナ地方の属国群を奪われ、国力が一時低下する。

紀元前1333年頃に即位したツタンカーメン王はアメン信仰を復活させ、アマルナを放棄してテーベへと首都を戻したが若くして死去し、アイを経てホルエムヘブが即位する。


ホルエムヘブは官僚制を整備し神官勢力を統制し、アマルナ時代から混乱していた国内情勢を落ち着かせたが継嗣がおらず、親友であるラムセス1世を後継に指名して死去した。

これにより第18王朝の血筋は絶え、以後は第19王朝と呼ばれる。

王朝が交代したと言ってもラムセス1世への皇位継承は既定路線であり、権力はスムーズに移譲された。

ラムセス1世も老齢であったため即位後ほどなくして死去。

1291年に即位した次のセティ1世は、アマルナ時代に失われていた北シリア方面へと遠征し、再び膨張主義を取るようになった。

紀元前1279年ごろに即位した次のラムセス2世は古代エジプト最大の王と呼ばれ、彼の長い統治の時代に新王国は最盛期を迎えた。

紀元前1274年には、シリア北部のオロンテス川でムワタリ2世率いるヒッタイトと衝突し、カデシュの戦いが起きた。

この戦いは痛み分けに終わり、この時結ばれた平和条約(現存する最古の平和条約)はのちにヒッタイトの首都ハットゥシャから粘土板の形で出土している。

またラムセス2世は、国内においても様々な大規模建築物を建設し、下エジプトのデルタ地方東部に、新首都ペル・ラムセスを建設して遷都した。

その次のメルエンプタハ王の時代には、紀元前1208年ごろに海の民の侵入を撃退したが、彼の死後は短期間の在位の王が続き、内政は混乱していった。

紀元前1185年頃には第19王朝は絶え、第20王朝が新たに開かれた。

20王朝第2代のラムセス3世は最後の偉大なファラオと呼ばれ、この時代に新王国は最後の繁栄期を迎えたが、彼の死後は国勢は下り坂に向かい、やがて前1070年頃に第20王朝が滅ぶとともに、新王国時代も終わりを告げた。

これ以後、古代エジプトが終焉するまでの約1000年は、基本的には他国に対する軍事的劣勢が続いた。

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