チャイナとの通交
チャイナとの通交は、渡来系弥生人に遡ることができる。
近年、DNAの研究が進み、渡来系弥生人の多くはチャイナ大陸の長江流域、江南地方から来たと言われている。
更に遡ると、現在のチャイナの青海省付近にまで遡ることができるという調査結果がある。
稲作については、弥生米のDNA(SSR多型)分析によって、朝鮮半島には存在しない水稲の品種が確認されており、朝鮮半島経由のルートとは異なる、チャイナ中南部から直接渡来したルートが提唱されている。
また近年、渡来系弥生人のDNAと、お酒に弱い人の遺伝子の関連性が調査されている。
弥生時代の開始については、かつてチャイナの春秋戦国時代の混乱と関連付ける考えがあったが、弥生時代の開始年代を繰り上げる説に関連してこれを否定するか、あるいは殷から周への政変に関連付ける考えが検討されるようになった。
チャイナの史書では、後漢の『論衡』が周代の倭に関する知識を伝え、次いで漢書が前漢代のこととして倭人が多数の国に分かれて住んでおり、使節を送ってくると記している。
『後漢書』(南北朝時代、432年成立)には、57年に倭奴国王が後漢光武帝から金印を授かり、また107年には倭国王帥升(または倭面土國王帥升)が生口を後漢へ献じたことが見える。
三国志の『魏志倭人伝』には、3世紀の倭国の状況が詳しく記されており、邪馬台国の卑弥呼女王が統治していたことなどを伝えている。
チャイナの三国時代の呉と倭国が公的に交渉を行った文献は全くないが、遺物としては呉の年号を記す画文帯神獣鏡が二面存在する。
山梨県西八代郡市川三郷町大塚の鳥居原塚古墳出土の赤烏(せきう)元年(238年)の紀年銘をもつ。
兵庫県宝塚市安倉古墳(あくらこふん)出土の赤烏七年(244年)の紀年銘をもつ。
弥生人の特徴
大陸から北部九州へと、水稲耕作技術を中心とした生活体系を伝えた渡来系の弥生人の形質に最も近い集団は、頭蓋骨の計測値に基づく自然人類学的研究によると河南省の新石器時代人、青銅器時代の江蘇東周・前漢人と山東臨淄前漢人であった。
また、眼窩は鼻の付け根が扁平で上下に長く丸みを帯びていて、のっぺりとしている。
また、歯のサイズも縄文人より大きい。
平均身長も162〜163センチぐらいで、縄文人よりも数センチ高い。
しかしながら、こうした人骨資料の殆どは北部九州・山口・島根県の日本海沿岸にかけての遺跡から発掘されたものであるが、南九州から北海道まで、他の地方からも似た特徴を持つ弥生時代の人骨は発見されているが、それらは人種間の形態とその発生頻度までを確定付けるには至っていない。
近年、福岡県糸島半島の新町遺跡で、大陸墓制である支石墓から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。
長崎県大友遺跡の支石墓群から、多くの縄文的な人骨が発見されている。
さらに瀬戸内地方の神戸市新方遺跡からの人骨も、縄文的形質を備えているという。
ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、弥生系の人骨だと判定されている。
つまり、最初に弥生系と考えられている北部九州や瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは弥生系の人と判定される人骨の出土数は縄文系とされる人骨より少ない。
水田稲作の先進地帯でも、縄文人が水稲耕作を行ったのではないか。
絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに、農耕社会へと移行したと考えられる。
鈴木尚は、縄文時代から現代までの南関東の人骨を比較研究後、縄文人から弥生人への体質変化を生活環境の変化と考えた。
狩猟・漁労生活から農耕生活へと生活環境を一変させた変革こそ、形質を変えることになったと理解した。
一方、1960年代になると金関丈夫が、山口県土井ヶ浜遺跡や佐賀県の三津永田遺跡などの福岡平野の前・中期の弥生人骨の研究から、弥生時代の人の身長は高く、さらに頭の長さや顔の広さなどがチャイナ大陸の人骨に近く、縄文時代人とは大きな差があると指摘し、縄文人とは違った人間が朝鮮半島を経由してやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えた。
その後の調査で、前述のようにチャイナ山東省の遺跡から発掘された人骨との類似も指摘されている。
また、埴原和郎は、アジア南部に由来する縄文人の住む日本列島へ、チャイナ東北部にいたツングース系の人々が流入したことにより、弥生文化が形成されたとの「二重構造モデル」を1991年に提唱した。
埴原は、人口学の推計によれば弥生時代から古墳時代にかけて、一般の農耕社会の人口増加率では説明できない急激な人口増加が起きていることから、この間、100万人規模の渡来人の流入があったはずだとする大量渡来説も提唱していた。
佐原真は福岡平野・佐賀平野などの北九州の一部で、縄文人が渡来人と混血した結果、弥生文化を形成して東に進み、混血して名古屋と丹後半島とを結ぶ線まで進み、水稲耕作が定着したとしている。
混血が起きた地域を西日本と限定すると、東日本では鈴木尚の説のように在来の縄文人が弥生人化したと理解している[誰?]。
また丸橋賢は、弥生人の形質は生来的に退化し易い形質で「食生活の向上」による咀嚼の減少が咀嚼力の退化に繋がり、それが結果的に日本人の生命力自体の退化に繋がったとしている。
そもそも弥生人は単一民族ではなく、複数の系統が存在するという見方もある。
現代の遺跡発掘調査
熊本県玉名市の両迫間日渡(りょうはざまひわたし)遺跡で、弥生時代後期のものとみられる水田跡の一部が発見された。
あぜ道(約幅1メートル)には、土の流失を防ぐため多数の杭が打ち込まれており、足跡も約50カ所見つかっている。
あぜ道からは、土器片や割れた木製の鍬などが見つかっている。(熊本県教育委員会2005年11月11日発表)
広島県三次市の東酒屋町の松ヶ迫矢谷(まつかさこやたに)遺跡で、弥生時代後期末のものとみられるガラス玉3点(直径約1cm)が発見された。
ガラス玉は1977年、三次工業団地造成に伴って行われた発掘調査で、埋葬施設から出土。
コバルト色で、長さ7.3 - 7.9mm、直径8.8 - 9.9mm。中央に穴が空けられ、装身具の一部に使われたと推測されている。
3月、奈良文化財研究所(奈良市)が、蛍光エックス線などで分析。
その結果、ローマ帝国産ガラスの特徴である「ナトロン(蒸発塩)」が使われていることが確認された。
ガラスの産地は、地中海沿岸から中東にかけてのエリアと考えられるが、玉形に加工したり、色づけしたりした地域は不明。
古代ローマ帝国で作られたガラスを素材にしていた可能性の高いことがわかった(広島県立歴史民俗資料館2012年9月7日発表)
※Wikipedia引用
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