幕張テクノガーデン
幕張新都心は、JR京葉線の海浜幕張駅を中心に開発された地区。東関東自動車道の南西側、浜田川の南東側である。
幕張新都心の美浜区中瀬・ひび野を所在地とする企業オフィスや公共施設は数多い。この「新都心」は「東京に加えて新たに都心機能を担う」といった意味合いである。
中瀬には、二丁目(京葉線の海浜側)にワールドビジネスガーデン(WBG; 地上35階)、一丁目(内陸側)に幕張テクノガーデン(MTG; 地上24階)という、いずれも高層オフィスビルがある。中瀬二丁目のWBGの海浜側と北西側には、国際展示場など「幕張メッセ」の施設が並ぶ。中瀬二丁目の南東隣り、ひび野二丁目にはホテル群がある。中瀬一丁目にはMTG以外に、セイコーインスツル(SII) 本社やシャープ東京支社などIT関連企業、小売業のイオン本社といった、国内大企業のビルが立ち並ぶ。中瀬一丁目の南東隣り、ひび野一丁目には、大型シネコンやレストランを擁する複合施設「メッセ・アミューズ・モール」、小売業のカルフールの日本1号店となったカルフール幕張(現在はイオン幕張店)がある。
幕張海浜公園
幕張海浜公園は、全体面積約71.9ヘクタールの広大な都市公園。美浜区ひび野(一・二丁目)に位置するA-Cブロックは、日時計を中心に配した広場、彫刻と緑の遊歩道、花時計がある広い芝生、日本庭園など、多様なコンセプトをうかがわせる。美浜区美浜に位置するD-Fブロックの東京湾岸は人工海浜「幕張の浜」(ただし遊泳や花火、バーベキューは禁止)で、FブロックにはZOZOマリンスタジアムがある。Gブロックは同じく東京湾沿いの美浜区豊砂に位置する。
幕張ベイタウン
幕張ベイタウンは、美浜区打瀬に位置する住宅街。同町域はJR京葉線・県立幕張海浜公園・東京湾・花見川に囲まれている。広大な都市公園のすぐそばだが、街中にも小さな公園がいくつも点在する。花見川沿いには緑地帯がある。
文教地区
美浜区若葉は文教地区となっている。幕張新都心開発よりひと足早く、大学施設や学校が開設され始めた「学園のまち」である。若葉一丁目と二丁目は、東関東自動車道の北東側で浜田川と花見川の間、三丁目は南西側でひび野一丁目と花見川の間。
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浜田川と習志野市の間で、大まかに言うと海浜側から豊砂・浜田・幕張西となる。
幕張西について千葉市公式サイトには、 一丁目から 四丁目について
「昭和39年より49年にかけて、幕張町一丁目に編入された公有水面埋立地をもって幕張西一 - 四丁目の住居表示を実施(S.54.11.1)。町名設定にあたっては幕張の西側に位置していること、及び住民投票による地域の希望により幕張西と附した」
また、五丁目と六丁目について
「当地区は主に幕張の旧漁民に分譲される一戸建住宅地であり将来は「幕張西地区」と一体的なものと考えられるので幕張西五・六丁目と附した。(S.55.4.22)」と記されている。
歴史
再開発が進む幕張駅北口エリア
「幕張」という名前自体の発祥は定かではない。一説にはマクワウリの栽培に適しており、それが所以と言うが、マクワウリが栽培された記録は残っていない。近世までは馬加(まくはり)と表記し、まくわりと読んだ。
千葉に多くみられる頼朝伝説のひとつとして、源頼朝が幕張の地にたちよった、馬を乗り換えた(馬を加えた)ので「馬加」になった、または、天幕を張ったので「幕張」になったなどという言い伝えもきかれる。
12世紀後半、下総国千葉郡武石郷と呼ばれていた。領主は千葉常胤の三男。武石三郎胤盛であった。その後、次第に開発が進められ、13世紀後半には、約1500軒を数えるまでの集落に発達したようである。室町時代に下総国守護千葉満胤の子・康胤が馬加城主(馬加城は、現在の二宮神社付近と言われる)となり馬加氏と名乗る。1455年、千葉氏で内紛が発生し、反主流派の盟主となった馬加康胤は甥である千葉胤直親子を滅ぼして当主の座を奪い、千葉康胤と名乗る。以後、佐倉に移った康胤の子孫が千葉氏の当主の地位を継いだ。
大正期に編纂された「千葉郡幕張町誌」(家鴨文庫所蔵)によれば、中世では須賀(または素加)すがと読ばれていた。子守神社の旧名も素加天王社といい、大須賀山、須賀原などの地名も見える。
江戸時代には江戸町奉行の与力給地が置かれ、その関係で享保20年(1735年)に青木昆陽がサツマイモの試作を行った場所として有名である。このため、天明の大飢饉の際に、餓死者は皆無だったようだ。弘化3年(1846年)に村人たちは彼の徳を敬い、昆陽神社を建設した。京成幕張駅の近くには、昆陽神社や甘藷試作地記念碑がある。また、京成とJR線をくぐるトンネルは昆陽隧道と命名されている。また、江戸後期の大相撲で活躍した荒馬大五郎(宮城野馬五郎、二代目宮城野)の出身地であり、その墓が大須賀山にある。
明治時代になると、千葉郡に編入され馬加、武石、長作、天戸の各村の役場を統一して、馬加に行政を統一した(明治11年)。そして同時期にJRおよび京成電鉄の幕張駅周辺は、東京近郊の海水浴場として賑わった。そのため千葉市内にある駅としては、幕張駅は千葉駅に続いて設置され、総武線の中でも古い駅の一つになっている。沖合いの埋め立てが始まるまでは、幕張駅から数分のところ(国道14号辺り)に砂浜があり、その先に東京湾が広がっていた。そのため昔は漁業も行われ、のり養殖なども盛んであった。また、首都圏の需要を支える野菜の産地としても栄え、特に砂丘部分の畑で収穫される幕張人参は、味がよいことで高い評価を得ていた。
この先の海浜部分の埋め立てが始まったのは、1960年代中頃からである。全体が計画都市として設計され、団地や教育施設、公共施設などが計画的に配置された。また災害時の場合を考慮して、道路が広く取られていることも特徴である。これとほぼ時を同じくして、人参畑やサツマイモ畑が広がっていた花見川区の総武線沿線でも風景が変わり始め、ベッドタウン化が始まった。埋立地では1970年代から住民の入居が始まったものの、予定されていた鉄道の開業が遅れ、1986年にようやく千葉港駅(現:千葉みなと駅) - 西船橋駅間で京葉線が部分開通した。その後、1989年には東京モーターショーが東京都中央区晴海から幕張メッセに移り、1993年には地域のランドマークとなるホテルも開業し、新都心への飛躍を果たした。
一方、JR幕張駅周辺は1980年代ごろ、再開発計画がJR海浜幕張駅周辺の都市計画と同時に持ち上がり、幕張メッセへの総武線側の玄関としての構想が練られ、実際に一部自治体による土地買収も実施されたが、駅周辺や商店街の一部の商業者の賛同を得られず、計画は白紙撤回された。代わりに幕張本郷駅が、その役目を担うことになった。
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