2018/02/18

日本人にとって神(カミ)とは(古神道9)




神道と仏教、死生観の違い
死後の世界を日本人は、どのように考えていたのか。死後、山に帰るという考え方もあった。地の底(黄泉の国)に行くとする考え方もあった。海の彼方(常世)に向かうという考え方もあった。「死の穢れ(けがれ)」の観念があり、死者は集落から離れたどこか遠くに行くと、漠然と考えられていた。仏教の輪廻が信じられたことはない。また、死者は鬼となって地獄に住するというチャイナの考え方が、道教や仏教を経由して日本に入ると、それも次第に広まっていった。

天皇はアマテラスを祀り、カミガミを祀り、天皇の祖先を祀る。この祭儀は、チャイナの統治者の儀礼を模したものだが、死んだ祖先をカミとして祀るのは日本に独特である。死者は、どこか遠くで「穢れ」を浄められたのち、カミのようなものになりうると考えられていた。仏教は、人間を、輪廻しつつ成仏をめざす修行の主体と考える。死んだ人間はすぐ別の生命に再生して、この世界をまた生きる。死者の世界も、霊魂も、存在しないと考える。すなわち仏教は、人間の死について、神道とまったく異なる考え方をもっている。それにもかかわらず、仏教が広まることは、どうして可能になったのか。

鎌倉~江戸時代、カミと仏を区別せず平安時代に「本地垂迹説」なるものが唱えられ、日本のカミガミはインドの様々な仏や菩薩が姿を変えて到来したものだと主張されるようになった。すなわち「カミ=仏」である。鎌倉時代にはこれが、日本人の一般的な通念となった。「カミ=仏」であれば、カミを拝んでも仏を拝んでも、同じことである。それなら、神社と寺を区別する必要もなく、仏教と神道を区別する理由もない。以来、江戸時代の終わりまで、日本人はカミと仏を厳密には区別してこなかった。

人が死んでカミになるなら、人が死んで仏になってもよい。仏教のうち浄土宗は、輪廻を脱して極楽に往生することを願う。阿弥陀仏は修行時代、この世界の衆生を彼の仏国土(極楽浄土)に往生させると誓ったのだ。極楽に往生できれば、成仏の一歩手前(一生補処)のランクが約束されるから、往生できるかどうかがポイント。「死ぬ→往生する→成仏する」という教義から、人間は死ねば仏になるという観念が広まった。

こうして日本人の平均的な死生観がかたちづくられ、今日に至っている。それは人間は死ぬと霊魂となり、しばらく周囲をさまよっている。そのあと三途の川を渡って、あの世に行き仏(ないしはカミ)となる。現世に執着や怨念が強い場合は、成仏できずに幽霊となる。行ないのよくなかった者は罰として地獄に堕ち、閻魔大王や鬼たちに苛められる。盆には死者たちが、家に戻ってくる。祖先は戒名をつけ仏壇の位牌に祀り、その前で線香をあげる、といったものだが、よく考えると神道でも仏教でもなく、しかも内容が矛盾している。

天皇を尊崇するナショナリズムへ
江戸時代、幕府はキリスト教を禁止し、日本人全員に仏教徒であることを強制した。具体的には、家ごとに宗旨を決めさせ、近くの寺に登録させたのである(檀家制度)。そして僧侶は実際上、葬式以外の活動ができなくなった。一方、幕府は武士たちに朱子学を奨励した。朱子学は町人や農民の上層部にも広まった。

仏教を強制し、朱子学を奨励した幕府は矛盾した政策をとっていたのだが、そのことに気づかなかった。というのも、朱子学はアンチ仏教である。輪廻や霊魂の存在を否定する。また、学問さえすれば誰でも統治階級になれるという考え方だから、江戸時代の士農工商の身分制度を否定する。また、正統な政府(統治者)に忠を尽くすことに価値を置くから、将軍の代わりに天皇を真実の統治者と仰ぐ尊皇思想を生み出すことになった。すなわち朱子学は、潜在的に江戸時代の統治システムを破壊する可能性を秘めていた。このロジックは、山本七平『現人神の創作者たち』に詳しい。

朱子学は「孔孟の道」(孔孟は孔子と孟子)にかえれという原理主義的な伊藤仁斎の仁斎学、荻生徂徠の徂来学をうみ、そこから日本古来のテキストを原理主義的に読解する国学を派生させた。国学の中心人物である本居宣長は『古事記伝』を著し、『古事記』の描く無文字社会の日本を再構成して、その当時すでに政府が存在し、人びとは天皇に服従していたと主張した。この天皇に対する服従は、朱子学の教えによって培われたものではない。人びとの自然な心情によるものである。こうして、天皇を尊崇するナショナリズムに参入する可能性が、すべての日本人に開かれることになった。

国家神道への道を開いた平田神道
幕末から明治維新にかけて、日本人のカミに対する考え方を大きく変えたのは、平田篤胤の唱える平田神道である。本居宣長の弟子を自称する平田篤胤は、神道を研究して次のように唱えた。人間は死ぬと、仏になるわけでも黄泉に行くわけでもない。霊となる。とりわけ国事に殉じた人びとの霊は、穢れのない英霊(すぐれた霊)となって、後続する世代の人びとを護っている。この革新的なアイデア(個々人には霊があって、死んだ後でも永遠にその個性を失わない)は、平田篤胤が禁書だった漢訳聖書を密かに読んで、キリスト教から学んだともいわれる。誰もが霊になるなら、日本人全員が檀家制度によって仏教と結びつけられ、仏式の葬儀を行なうとしても、それと無関係に神道式の慰霊の儀式を行なうことができる。戦死者を祀ることができる。

明治政府を樹立した官軍は、平田神道を採用し、戦死者の英霊を招魂して儀式を行なった。明治2年には東京の九段に招魂社が設けられ、のちに靖国神社となる。陸海軍が所管する、明治維新の志士や戦没者など国事殉難者の英霊を祀る施設だ。国のために命を犠牲にした一般の人びとが、カミとなって祀られる神社である。欧米のメディアは靖国神社を「戦争神社(war shrine)」と報道するが、正しくない。実際には、革命記念碑や無名戦士の墓に類似した施設である。

平田神道と靖国神社は、国家のために献身する近代的な国民を創出する効果があった。そのためには、神道と仏教が分離する必要があった。こうして幕末から維新にかけて起こったのが、廃仏毀釈、神仏分離の運動である。政府の指導で神社と寺ははっきり分けられ、曖昧であることは許されなかった。明治維新とともに、政府が主宰する国家神道が生まれた。文部省は「神道は日本人の日常生活に溶け込んでいるから、宗教でない」という見解をとり、国家神道を日本人全員に強制した。死んだ人間がカミになるという考えから、新しい神社が明治以降にいくつもつくられた。

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