神武天皇は、即位前は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の四男(または三男)である。生まれながらにして明達で、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。
『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて
「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲(179万2470余年。神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。
東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」
と宣言した。諸皇子は、みなこれに賛成した。
長髄彦との戦いと苦難
太歳甲寅(日本書紀#太歳(大歳)記事参照)年の10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。
11月に筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。乙卯年3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた。
神倭伊波禮毘古命
自伊下五字以音(かむやまといはれびこのみこと)は、伊呂兄(いろせ、同母兄)の五瀬命、上伊呂二字以音(いつせのみこと)と二人で高千穗宮(たかちほのみや)で相談され
「どこに行けば天下を治めることができるだろうか。東の方に行ってみましょう」
とおっしゃって、日向(ひむか)を発ち、筑紫(つくし)に着かれた。
途中、豐國宇沙(とよくにのうさ、大分県宇佐郡宇佐)にお着きになられた時、その土地の宇沙都比古(うさつひこ)と宇沙都比賣
此十字以音(うさつひめ)の二人が足一騰宮(あしひとつのあがりのみや)を建て、おもてなしをした。そこを発って、筑紫之岡田宮(つきしのをかだのみや、福岡県遠賀(おんが)郡芦屋町)に一年居られ、阿岐國之多祁理宮(あきのくにのたけりのみや、広島県安芸郡府中町に顕彰碑がありますが?)に七年、吉備之高嶋宮(きびのたかしまのみや)に八年居られた。
0 件のコメント:
コメントを投稿