2018/02/24

日本人の死生観を探究するための三つの扉(古神道10)




日本人の死生観を考える上では、三つの扉を開けて入るのがわかりやすい。第一の扉が、風土的・環境的な背景を手掛かりにすることだ。

以前、日本の広告会社が、日本列島を3000メートル上空から撮影したビデオを作った。沖縄からセスナ機を北上させ、日本列島を縦断して北海道にいたる眼下の景観を、一時間ほどにまとめたものだった。私は、それを見て驚いた。沖縄から本土までは一面の大海原だったが、その後そこに展開する国土の連なりは、行けども行けども山また山、森また森だったからだ。あえて言えば、そこに展開する自然の中に、稲作農耕社会の片鱗さえ見いだすことはできなかった。むしろ森林社会、山岳社会、そして海洋国家といえばいえるような景観が、どこまでも続いていたのである。

やがて、これは高さのトリックによる錯覚ではないか、と気付いた。もしもセスナ機の高度を1000メートル近くに下げたらどうか。そこに関東大平野のような耕作地帯が見えてくるはずだ。さらに機首を500300メートルと下げるとどうなるか。そこに近代的な都市と工場地帯が姿を現すに違いない。ハッと思った。日本列島は三層構造で出来上がっている。森林山岳社会、稲作農耕社会、そして近代工業社会である。そしてこの列島形成の重層性が、そのまま我々の意識と感覚に重要な性格を刻み込んだ。深層における縄文文化、中層における弥生文化、そして表層における近代的な意識や価値観である。

そしてこの風土と意識に関わる三層構造は、2011311日の「東日本大震災」のような危機に際して、柔軟な対応を可能にし、いつ起こるかもしれない自然の脅威と、それによって発生する不条理な死を忍耐強く受容する態度を生み出した。例えば、近代日本の代表的な自然科学者であり文学者でもあった寺田寅彦は、1930年代に「天災と国防」、「日本人の自然観」というエッセーを書いて、次のようなことを言っている。

第一、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害は、その激烈の度を増す。
第二、日本列島は西欧に比べて地震、津波、台風による脅威の規模がはるかに大きい。
第三、そのような経験の中から、自然に逆らう代わりに、従順に首をたれる態度が生まれ、自然を師として学ぶ生き方が育まれた。

その結果、日本の科学も自然を克服するという考え方からは離れ、自然に順応するための経験的な知識を蓄積することで形成された。ここで特に注目しておきたいのは、西欧の自然が比較的安定しているのに対して、日本の自然が遥かに不安定で、時に狂暴な性格を持ったということだろう。

日本風土の中で変容した「無常観」
それだけではない。寺田寅彦は、このような自然への随順、風土への適応という態度の中に、仏教の無常観と通ずるものを見いだしていた。数限りない地震や風水による災害をくぐり抜けることで「天然の無常」という感覚がつくりあげられたと言っているからである。

この「無常」というのはもちろんインドの釈迦が考えたものだ。この地上に永遠なものは一つもない。形あるものは必ず滅びる。人はやがて必ず死ぬ、というのが、釈迦の説いた原理的な立場だった。ただ、このインド産の無常の意識は、日本的風土の中で重要な変容を遂げることになった。我々を取り巻く自然界には、四季の巡りによる蘇りと循環の無常が息づいているという感覚である。

春に花が咲き、秋には紅葉と落葉、そして冬になって木枯らしが吹く。けれども年を越せば、また春が来る。照る日、曇る日が循環し、それが生きる支えになっている。ねばり強く、柔らかな、たおやめぶりの忍耐力が芽生え、やがて近づいてくる死の影、死の訪れを静かに受容して土に帰る、自然に帰一する、そういう感覚が発達したのである。

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