神武天皇が即位したという辛酉の歳は、そのまま換算すると紀元前660年であり、同時に弥生時代にあたる。
明治時代に入り、近代歴史学が導入されると
「歴史は、同時代史料や同時代史料に基づくと推定される良質の編纂史料に根拠を持つものによってのみ叙述されるべきだ」
という原則が広く承認されるようになった。
こうした近代歴史学の原則を日本古代史に当てはめると、記紀の記述も他の史料や考古学的知見などに照らして、客観的、批判的視点で厳密に検証される必要が生じる。その作業を経て尚、残った記述のみが「史実」として認識されるのであるが、これにより明治政府により広く国民に顕示されたところの「皇室の歴史」を疑う議論も生まれかねない。このため、長らく本格的な史料批判は行われないままであった。
それでも早くから、初期の天皇が異常に長命であることや、紀年が古すぎることに疑問を持つ者はいた。たとえば明治の歴史学者、那珂通世は1897年、「上世年紀考」で『日本書紀』の記述を批判して
「記紀の紀年は、古代中国由来の「辛酉」の年に天命が始まり、王朝が代わり同時に正しい大改革も行われるとする「辛酉革命説」に基づく記紀編者の創作であろう」
と論考した。
その上で、那珂は
「推古天皇治世の最も輝かしい事跡が601年の辛酉にあったことから、その前回の辛酉、つまり紀元601年からさらに1260年遡った紀元前660年あたりを神武即位年にしたのだろう」
と推測した。
大正期になるとさらに記紀への批判は過激化し、津田左右吉は記紀の成立過程に関して本格的な文献批判を行い、神話学、民俗学の成果を援用しつつ
「神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室による日本の統治に対して『正統性』を付与する意図をもって編纂された日本神話の一部として理解すべきである」
と断じた。
このため津田は「皇室の尊厳を冒涜した」として出版法違反で起訴され、有罪判決を受けた(津田事件)。
戦後は軍事国家体制解体のために天皇神聖性の除去、軍国主義教育の廃止の方針の中で連合国により皇国史観の元となった神武天皇らは、歴史教科書から排除された。なおかつ戦前の教科書の類は、焚書図書対象となり破棄された。そして連合国の意に背く学者は排除された。戦前、津田の著書は不敬であるとして発禁処分とされたが、戦後になって不敬など皇室のタブーが解かれると、連合国の意に沿った多くの歴史学者によっておおむね妥当な推論であるとして支持されるようになり、以降、今日に至るまで記紀の記述を多角的な観点から検証した様々な学術的推論が提起されるようになる。
なお、津田左右吉は当時、神武天皇を認めつつも次の第二代目天皇の綏靖天皇から第十四代の仲哀天皇までの実在性に疑義をとなえていたが(欠史十三代)、戦後の歴史学の研究成果により、実在可能性に乏しいのは第九代の開化天皇までであり、第十代の崇神天皇からは実在の人物であるとする考え方(欠史八代)が、現代の歴史学会において主流となっている。
こうした経緯から、現代の歴史学界では神武天皇の存在は前提とされていない。そのため古代史研究者の間では、神武天皇の説話は弥生時代末期から古墳時代にかけての種々の出来事をベースに、実在した複数の人物の功績や人物像を重ねあわせて記紀編纂時に創作されたものとする「モデル論」が盛んである。神武天皇の「モデル」とされた人物としては、学術上、実在の可能性が認められる初めての天皇とされる崇神天皇を筆頭に、応神天皇、継体天皇、さらには記紀編纂時期の天皇である天武天皇などが指摘されている。
一方で、心理学者で古代史研究家の安本美典のように、神武天皇を実在とする論者もいる。神武東征物語は、邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)であるとする。また古田武彦も神武天皇の実在を主張するが、神武天皇が開いた大和朝廷を邪馬壱国/九州王朝の分家だとしている。
なおギネスブックでは神武天皇の伝承を元に、日本の皇室を世界最古の王朝としているが、「現実的には4世紀」としている。
神武天皇の即位年月日は、『日本書紀』の記述に基づいて明治期に法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされた。
紀元前660年とされた経緯
『日本書紀』においては、年月日は全て干支で記している。神武天皇の即位年月日は「辛酉年春正月庚辰朔」とある。
太陽暦(グレゴリオ暦)が明治6年(1873年)1月1日 から暦として採用されたが、それに先立って紀元節が旧暦である天保暦の正月(旧正月)とはならないようにするため、神武天皇即位の日である紀元節を太陽暦(グレゴリオ暦)特定の日付に固定する必要が生まれた。文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して2月11日という日付を決定した。具体的な計算方法は明かにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。
神武天皇の即位年は『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に逆算すると、西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い「庚辰」の日を探すと、西暦では2月11日と特定される。その前後では、前年12月13日と同年4月12日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。したがって「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。また、この日を以って皇紀元年とする暦が、主に明治・大正期から終戦まで用いられた。
なお、『日本書紀』は「庚辰」が「朔」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。当時の月齢を天文知識に基づいて計算すると、この日は天文上の朔に当たる。
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