<源平合戦の中でも最大の名場面の一つが、一ノ谷の戦いで源義経が演じた「鵯越えの逆落とし」です。思いもよらぬ急坂の上からの奇襲は、源氏に大勝利を齎しました。これを機に、各地で兵を挙げた源氏軍の進撃の前に、さしもの権勢を誇った平家一門が幼い安徳天皇や天皇の生母・建礼門院を擁して都落ちし、西国に逃れたのは、寿永二年(1183)七月二十五日のことであります。翌二十六日、後白河法皇は京都に残った公家たちにいちはやく平家追討を謀りました。
平家は都を落ち、摂津の一ノ谷の唆しい山に篭りました。源頼朝の命を受けた義経は一隊を土肥實平に預け、一の谷に向かせ、自らは残りの兵を率いて鵯越えより奇襲を行なう作戦を練りました。そして一の谷の裏山伝いに鵯越えに向かいましたが、山は峻しく人馬とともに大いに悩まされました。
そこで義経は弁慶にに「この山の道案内する者を探し出せよ」と命じました。ようやく谷間の一軒の荒屋を見出し、この山の道案内を頼んだところ、心よく引き受けてくれました。これが鷲尾三郎経春でありました。やがて鵯越えの絶頂に着き下を見おろせば、今しも西南の門では敵味方が入り乱れて大激戦の様がありありと見えました。
義経は、道案内者に向かって「屏風を立てた如きこの断崖を人馬が通るか」との問いに「人馬は通りませぬが、たまに鹿が通ります。」との答に義経「鹿は四足、馬も四足、鹿が通って馬が通れぬ筈はない」と大胆にも義経は左右を振り向き、吾に続けと一鞭当て降りれば一同続いて一ノ谷を攻め、火を放ちました。
敵はこの不意の襲撃に狼狽し、ひとたまりもなく敗れ、海路屋島へと落ちのびていきました。一平家の主だった武将たちが次々と討ち取られ勝敗は決しました。義経の名はこれを機に一躍全国にとどろき渡りました。>
<ヒヨドリはスズメ目ヒヨドリ科の鳥で、白頭鳥とも表します。「ひいよひいよ」と鳴く事から、その名が付けられました。鵯越は、上って降りるようなヒヨドリの飛び方に由来する山道で、現在の神戸市から北西に六甲山地を越えて走っています>
ポリネシア語による解釈
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
<播磨・摂津の境の一ノ谷(現神戸市須磨浦の西)の北の山の手を鵯越えと言い、ヒヨドリが春秋にこの山を越すところから、地名となったといいます。源平一ノ谷の合戦で、平家の陣を背後から奇襲した「鵯越え」の地として有名です。
この山から、一ノ谷に下る断崖は急坂で「馬も人もよもかよひ候わじ」と言われていましたが、元暦元(1184)年2月、源義経はこの断崖を鹿が通ると聞いて 「鹿の通程の道、馬の通わぬ事あるべからず」と言い、ここを一気に駈け下って平家の背後を突き、源氏軍を勝利に導きました(『平家物語』)
この「ひよどり」は
(1) 鵯のような小鳥しか飛べない急峻な坂の意
(2) 摂津・播磨の国境の標(ひょう)柱が建てられていたことによる、とする説などがあります。
(1) 鵯のような小鳥しか飛べない急峻な坂の意
(2) 摂津・播磨の国境の標(ひょう)柱が建てられていたことによる、とする説などがあります。
この「ひよどり」は、マオリ語「ヒ・イオ・トリ」、HI-IO-TORI(hi=raise,rise;io=muscle,ridge,tough;tori=cut)、「高い峰を切ったような(坂)」の転訛と解します。
さて、この「鵯越え」または「鵯越えの逆落とし」には、地名とは別にもう一つ全然別の解釈があるようですが、残念ながらワタクシはそちらの方面には滅法暗いので、そちらの解説は好事家のどなたかにお任せしましょうか (`m´+)ウシシシ
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