2017/10/11

ミケーネ文明(1)


数千年の間注目されていたミケーネ遺跡/「ギリシア神話」の世界
 古くは古代ローマ時代の書の中で、墳墓としての「アトレウスの宝庫 Treasury of Atreus」の位置と内容が記述されていた。さらにミケーネ遺跡地区で本格的な考古学的発掘がスタートする以前でも、過去の歴史の中で完璧に盗掘が行われていたことから、少なくとも1800年代の初めにはトロス式墳墓「アトレウスの宝庫」の存在自体は、ヨーロッパでかなり知られていたと考えられる。

ミケーネ宮殿のライオン門を含む城壁部分は、1840年代、ギリシア考古学協会により発掘ミッションが実行されている。その後、1870年代になるとトルコ・エーゲ海岸地方のトロイ遺跡で、財宝目当ての「宝探し」の発掘と作り話の自伝で有名なドイツ人実業家シュリーマンが、ミケーネ宮殿内部で本格的な発掘をスタートさせる。その直後の1880年代、ギリシア人考古学者ツーンタスが宮殿外部で行った一度の発掘作業では、3,500年間の眠りから覚めることになる約70か所の横穴墓と数多くの眩しい副葬品を発見している。1900年代になると、特にアテネのブリティッシュ・スクールの考古学セクション、あるいはギリシアの考古学協会などを中心とした多くの発掘ミッションが実行され、ミケーネ宮殿の内外の広範囲に点在するトロス式墳墓と、おびただしい数の横穴墓、住居区画などの調査と発掘が行われてきた。

世界遺産/シュリーマンが発掘したトルコ西海岸トロイ遺跡
西ギリシアのペロポネソス・アルゴス地方に残るミケーネ宮殿遺跡(Mycenae Palaceは、紀元前16世紀~前12世紀に繁栄したミケーネ文明の政治・経済・文化・軍事の最大センターであった。また、ミケーネ宮殿を中心に周辺に点在する墳墓などのミケーネ文明遺跡は、20km南方のティリンス宮殿遺跡(Tryns Palace)と共に1999年、UNESCO世界遺産に登録された。

ミケーネ文明センターのミケーネ宮殿の繁栄
紀元前16世紀の興隆 ⇒ 繁栄 ⇒ 紀元前12世紀の崩壊
 ミケーネ宮殿は、それまで小規模な「」と、それを囲むシンプルな居住地であったが、後期ヘラディックLHI期にあたる紀元前1600年前後から一気に興隆、現在見ることのできる堅固な要塞宮殿を建て、その後紀元前14世紀の最盛期を経て、紀元前1250年頃に起こった地震で部分的に破壊を被る。しかし、その被害は致命的には至らず、その後何とか再起するが、ギリシア本土の多くのミケーネ文明センター、例えばアテネを含めティリンス宮殿、西部のネストル宮殿、スパルタ近郊メネライオンの「宮殿」、中部ギリシアのテーベ宮殿などが、紀元前1200年頃、何らかの理由と原因で次々と破壊され崩壊するのと同様に、ミケーネ宮殿も崩壊してしまう。その原因は、北方からの異民族とされるバルカン系の「ドーリア人?」の襲来とも言われているが、今のところ研究者からの確たる証拠は発表されていない。ただ、宮殿崩壊の後もミケーネ居住地は紀元前1000年頃までかなり長い期間、宮殿システムに頼らない庶民が暮らし続け、その痕跡の証拠は無数の墳墓からの出土品などで確認できる。この宮殿崩壊後の一般庶民の継続居住は、同様な環境にあった南方20kmの崩壊後のティリンス居住地などでも行われた。

ミケーネ遺跡の規模/出土品の意味と価値
 ミケーネ宮殿の遺構は、ミケーネ時代の宮殿様式を最も特徴づける「メガロン形式(後述)」と呼ばれる王の居室の周辺、ライオン門と堅固な城壁、南翼部と東翼部の列柱広間の邸宅遺構、北門と地下泉などを除き、全体的にはかなり崩壊が進み、明確に残されている遺構はエーゲ海クレタ島のミノア文明のクノッソス宮殿遺跡と比べ、決して多いとは言えない。ただし、ミケーネ遺跡のもつ計り知れない考古学的価値は、宮殿内部と外に造られた2か所のユニークな円形墳墓 Grave Cirlcle(A/B)を初め、宮殿の周辺で発見された王族クラス用の合計9基のトロス式墳墓、無数に確認された横穴墓(横穴式墳墓)などからのおびただしい副葬品、その「量」と「質」にある。

ミケーネ遺跡区域で発掘された数多くの金製品を初め、眩いほどの宝飾品や象嵌短剣、儀式用の石製品、特徴的なミケーネ陶器、美しいフレスコ画など、限りない数量の出土品はミケーネ文明の解明に欠かすことのできない考古学的物証となっている。現在、その殆どの発掘品がアテネ国立考古学博物館で展示公開されている。

 ミケーネ宮殿遺跡を象徴しているのは、厚さ5m6mで総延長900mと言われる大型石材の堅固な城壁、そして頭部は欠落しているが、2頭のライオンの大型レリーフが残る「ライオン門 Lion Gate」と呼ばれる堂々たる城門であろう。細い円柱を挟み向かい合うライオン像の石材は、城壁に使われた砂岩などとは異なり、グレーがかった硬質の石灰岩が使われている。ライオン門の基礎石からライオン像を支える横梁状のリンテル石(まぐさ石 Lintel Stone)までの開口高さは3.1m、開口幅は平均で2.9mほど、上部に置かれた巨大なリンテル石の重量は20トン以上と推定されている。ライオン門と、その周辺の分厚い城壁の発掘はシュリーマンの発掘活動よりも早く、1840年、ギリシア考古学協会のピッタキスなどの研究者により実施された。

現在、ミケーネ宮殿遺跡は長い堅固な城壁で囲まれているが、この城壁は複数回に渡って徐々に拡張されたもので、最初に「メガロン形式」と呼ばれる王の居室などがある「宮殿主要区画」を中心に、アクロポリスの丘を囲む城壁が造られた。パワーを増したミケーネ文明は、エーゲ海の繁栄の島クレタのミノア文明へ攻撃を掛け、紀元前1450年頃にはクノッソス宮殿を除く、ミノア文明の主要宮殿と邸宅を次々に破壊して行く。その後、紀元前1375年頃、最後まで残ったクノッソス宮殿も崩壊して、ミノア人による「純粋なミノア文明」は事実上終焉する。一方、クレタ島侵攻を行った好戦的なミケーネ人の本家ミケーネ文明は衰えることなく繁栄を続け、その後、文明は最盛期を迎える。

今日、発掘される紀元前14世紀の横穴墓などからの副葬品が豪華になることで証明できるが、ミケーネ文明の繁栄した紀元前14世紀の終り頃~前13世紀の初め頃、財と力が蓄積されたミケーネ宮殿では、北側城壁~南東城壁が拡張された。この頃、大きな地震が最低でも1回発生したと推測できるが、繁栄の極地にあったミケーネ宮殿では、他のミケーネ文明の宮殿、例えばティリンス宮殿や西部メッセニア地方のネストル宮殿、ギリシア中部のテーベの宮殿などと同様、即時に古い宮殿があった場所で新たな宮殿の建て替えや修復が行われている。

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