孔子は、古の様々な教えを孔子自身の考えに基づき研究した。そして、正しい徳(仁、義、礼、知、信)を得ることを目指し、(仁を尊ぶ)人の生きる道として、孔子はその思想を大成させていったと言える。
仁 (真の思いやりをもって人を慈しむ(真に愛する)心)
義 (正しい考え(思い)や言葉や行い、仁に基づく正義)
礼 (理に適った形や決まり等の行動の規範、仁に基づく礼)
知 (正しい学問や修養によって得られる知識と知恵、仁に基づく知恵)
信 (真実を行うことによって終局的に得られる信頼、仁に基づく信)
孔子の言葉(思想)を、そのままに後世に伝えるものとして論語がある。孔子の言葉(教え)や行動を後の人々(弟子や孫弟子等)が語り伝え、書き伝えやがて編集、記録した書物を残した。その一連の書籍を論語と言う。論語は、学而、為政、里仁、公冶長、雍也、述而、子路等の二十の篇に分かれていて、各篇はその内容や表現の長短や趣に多少の特徴も見られるが、多くの篇は様々な内容を含んでいる。特に内容に特徴のあるものとして、郷党篇は孔子の日常の様子をまとめており、子張篇は主に孔子の弟子(子張、子夏、子游、曾子、子貢等)の言葉がまとめられている。
孔子は魯の国だけでなく、当時の多くの諸侯の国々を遊行(遊説)して回った。それについては、孔子が仕官を目的にしていたのではと解釈されることもある。その面も、すべてを否定する事は出来ないが、孔子は何よりも自分の考え(思想)を人々に説くことが自分の使命(天命)と信じ、その生涯を使命に捧げたと言える。
孔子の生涯を孔子自身が簡潔に表した、有名な言葉が残っている。
吾十有五にして学に志す(人として学ぶことを覚える。やがて、古典の中に自分の心に響くものを求める、学問に目覚める(志学))
三十にして立つ(この世に生きる自分の命を正しく自覚する(立命))
四十にして惑わず(自分の目指しているもの(仁、真実に基づく慈愛)を確信し、修養し学ぶことに惑うことがない(不惑))
五十にして天命を知る(この世において自分のなすべきことを知る(知命))
六十にして耳順(したが)う(他の人の言葉(中傷、非難、嘲笑さえ)も素直に聞き入り、冷静に判断(耳順、じじゅん)出来る広い心を持つ(寛容))
七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を超えず(為政)(自分の行いが、自分の心の求めるままになされた時、道理に反していない。自分の意志で自分を正しく制することが出来る(自制))
子曰く
「学びて時にこれを習う、亦(また)説(よろこ)ばしからずや。
朋(とも)あり遠方より来る、亦楽しからずや。
人知らずしていきどおらず、亦君子ならずや」(学而)
いにしえの良き教えを学びそれをいつも実践する、それこそ喜びである。朋(同じ教えを研究、学習する人)が遠くからでもいとわずにやって来る、それは実に楽しいことである。他の人が自分を正しく知って評価してくれなくても、心に不満をいだいたり、まして怒ったりはしない。それでこそ君子である。
子曰く
「これを知るをこれを知ると為(な)し、知らざるを知らずと為せ。
是(こ)れ知るなり」(為政)
知っていることを知っているときちんと自覚して、知っていないことは知っていないとはっきりと知りなさい(無知の知)。それこそが真に知るということです。
この辺りは、ちょうど同時代のソクラテスの「無知の知」に通じる思想であることが、非常に興味深い。遠く離れた東洋と西洋で、約2500年も昔に同じようなことを考えていたというのは驚きだ。
孔子は、決して人の死について軽んじていたわけではない。死者の霊魂、先祖の霊魂に対する真実(誠)の心を大切なものとして尊んでいる。
子曰く
「其の鬼(き)に非(あら)ずして之(これ)を祭るは諂(へつら)うなり。
義を見て為(な)さざるは勇(ゆう)なきなり」(為政)
これは、孔子生存当時のC国の風習も関連してくるが、孔子は自分の祖先の霊魂でないのに祭るのは、へつらうことであると言っている。その前提として、自分の祖先の霊魂は正しく祭る必要があるとされている。ただし孔子は、まずこの世において自分がなすべきことを努力する、鬼神は敬して遠ざかる(敬はつくすが、迷信的に近づかない)、のようにも言っている。
いわゆる「怪力乱神を語らず」で、「怪」は怪異で不思議なこと、「力」は怪力で力の強いこと、「乱」は道理にそむき世を乱すこと、「神」は鬼神の意。理性では説明のつかないような、これら4つの言葉を口にしなかった孔子の姿勢を、ある弟子がこのように評した。
そのありようが通常定かには解らなくても、亡くなった人の魂はそれをおろそかに扱わないように、礼に従って祭るべきとされている。孔子は死者を弔う儀式も、礼に従っておこたり無くすることをすすめる。また一方で、必要以上に儀式にこだわって心が伴わないよりは、たとえ形式に不足があっても、死者を心から弔う方がよい、その思いがなにより大切であるとも説いた。孔子は形式や儀式を大切にして、怠りなく行うことを勧めた。しかし、形式は人間のために作られたものであり、何よりも人間の心(思い)こそを大切にするようにと説かれている。
義を見て正義の行いが出来ないのは、勇気がないのであると説かれている。これは現実社会において簡単には出来ない、実行が困難なことである。孔子は正義を行う勇気を、仁による勇気として大切なものとする。言い換えると、目先の利益より、正義の方に真価があるとなる。孔子は、義には仁(人を慈しむ心)が必要であるとしており、仁のない義は、孔子の言う真の義とはされない。孔子は、仁者は勇者であると言う。しかし、義の伴わない勇気は、危険な蛮勇となり得るとも言い、勇者は必ずしも仁者ならず、と説かれている。
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