聖人
孔子の理想とした人、仁の心で広く人々を救うことの出来る人、理想であってこの世に見ることは殆ど困難である。弟子の子貢との問答に、次のようなものがある。
子貢「もし、博(ひろ)く民に施して能(よ)く衆を済(すく)うことあらば如何(いかん)。仁と言うべきですか」
孔子「何ぞ仁にとどまらん。必ずや聖(せい)か。」(雍也)
聖人には、孔子自身生涯会うことは出来ないであろうと言っていた。生前孔子は、自分も聖人ではないと言っていた。後世の、孔子を慕う人々が「至聖文宣王」の名を孔子に冠したのは、在りし日の孔子の徳を思い、その言動に聖なる教えを感じたからであった。
仁者
仁の心で仁を行う人、完全な仁者は通常会うことは出来ないほど少ないとされる。上記の子貢との問答の後半部で、孔子は次のように言っている。
「それ仁者は己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能(よ)く近く譬を取るを、仁の方と言うべきのみ」(雍也)
孔子は、仁者となる方法を説いた。
自分が立たん(そうありたい)と思うことを人にあらしめる。自分が達せん(そうなりたい)と思うことを人に成らしめる(自らの欲することを人に施す)よく身近なことを大切に行ってゆくのが、仁者となる方法と言うしかない。孔子は「自分も仁者ではない」と言い「自分は学を好み、仁を人に説き、勧めることに飽きない者である」と言っている。この自己を謙遜する言葉を聞いてその弟子たちは、それ(仁を説き、勧めること)こそ仁の人でなくては出来ないことです、と孔子を尊敬し賞賛している。
ある時、人に問われた孔子は「自身の弟子の中にも、仁者は一人も見ることは出来ない」と言った。したがって聖人も仁者も、孔子の理想とした存在ではあっても、世の人々に説き勧める対象とはならなかった。
君子
人格者であり世の道理を知り、道理に従って行動できる人。孔子は、弟子の顔淵(顔回)を人格の面で特に認め、賞賛している。孔子の多くの弟子の中には、要職に仕官をした者や地位や名誉や財産を得た者もいたが、顔淵は仕官することもなく学に打ち込んだ。したがって顔淵は他の多くの弟子に比べても、生涯つつましい(貧しい)暮しぶりであった。孔子は、君子として正しく生きている結果が貧しい生活であったなら、そこに安んじて暮らすことが出来るのが真の君子である(君子でなくては、そこに安んじて暮らすことは出来ない)と言う。
この一事からも、孔子の最も大切としたものが、仕官することによって得られる地位や名誉や財産ではなかったと言える。(孔子が一時期、自ら仕官を求めたり、それを人(弟子等)にも勧めたことがあるのは、より良い治世(善政による世の人々の幸せ)を目指した時(状況が好機と見た時)であった。孔子は地位の上下有無や、名誉や財産の有る無しにかかわらず、それぞれの人が自分のいる立場や状況において、君子として生きることを説いたのである。
君子とは、仁を行おうとする人、仁者に憧れ自分でも仁者を目指す人。したがって、君子は仁を学ぶ人であり、理想的な君子は仁者により近い人と言える。孔子が世の人々に求めた理想的な人間像が君子であった。論語の記述の多くは、君子としての心構え、言葉、行動等が説かれている。
君子という表現は、君主と混同されることもあるが、孔子の在世以前は主従を君子と小人で表すことがあった。したがって論語の一部には、その名残りのように主従を表すような君子と小人の使われ方もみられる。しかし、孔子自身は君子とは仁を目指す有徳の人として(地位の上下在る無しに関係なしに)、理想の人格者のことを表している。
剛者
(正しい意思が固い人、欲の執着から離れた人。この意味から仁者は剛者でもある。「そのような人に会うことは難しい」と孔子は言っている。しかし剛者であっても、必ずしも仁者とはされない。
善者
善い人、善いことが自分の強い意志でできる人。この意味から仁者は善者でもあるといえる。「このような人に会うことは難しい」と孔子は言っている。しかし善者であっても、必ずしも仁者とはされない。
勇者
勇気ある行動のとれる人。孔子によると仁者は(義において)勇者であるとされる。しかし勇者が必ずしも、仁者であるとは限らない。
弟子の子路(勇に過ぎた所が見られた)が「君子は勇を尊びますか」と聞いた時、孔子は子路を戒めるように、次のように答えた。
「君子は義を上となす、君子に勇だけあって義がなければ乱をなす。小人に勇だけあって義がなければ、盗をなす」(陽貨)
賢者
優れたその人間性に対し、孔子は敬意を示した。賢者は有徳の人とされている。孔子は常々、その徳を高く評価していた顔淵(回)について、賢者であると言って称えていた。孔子の理想とする仁者は有徳の意味において賢でもあると言える。しかし、たとえ賢者であっても、必ずしも仁者であるとはされない。
知者
知識に優れた人、その人間性に対しては、孔子も敬意を示した。学ぶこと、知識を得ることを孔子は尊ぶ。仁者は、その意味においては知者でもあると言えるが、知者が必ずしも仁者であるとはされない。知者という言葉は、孔子の理想とする仁者とはある時には微妙に、またある時は基本的性質において異なる人を言い表すこともある。孔子は、次のように言う。
知者は水を楽(この)み、仁者は山を楽(この)む
知者は動き、仁者は静かなり。
知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し。
(雍也)
仁者は仁に安んじ、知者は仁を利す
小人
君子の対極にいる人。徳を求めることもせず、この世の表面上の利害得失に流されている人。正しい徳(仁、忠、恕、寛、敬、孝、悌、恭、剛、恵、善、勇、直、義、智、賢、礼、知、信等)よりも、世間の損得(利)に左右されて生きる人。たとえ社会的な評価は高くても(または低くても)、たとえ地位や名誉や財産がどれほど有ったとしても(または無かったとしても)、小人は徳(仁)による人格の面からは取るに足りない(つまらぬ)人とされる。人として何よりも大切な仁に欠ける人、孔子の説く仁の真価を解せず、仁を目指すこともない人を言う。
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