2017/10/03

船場

船場

大阪の都心部の街並みは、基本的に東西南北の直交型街路である。

元来、大阪城に対して放射方向の街路を町通りと称し、この両側に町が形成された。これを両側町と呼ぶ。船場の場合、東西方向の街路がこれにあたる。

 

一方、町通りに直交する、船場の場合には南北方向の街路を筋と称する。筋は本来補助的な街路であったが、大阪においてはキタとミナミの発展、およびモータリゼーションの進展に伴い、筋がより重要な街路となった。ただ、船場においては道修町(どしょうまち)に見られるように、今なお町通りが街並みの基本をなしている面が強い。

 

なお、船場においては、「町」はすべて「まち」と読む。船場は堀に囲まれた(囲まれていた)四角形の地域であり、範囲は

 

ü  北 ― 土佐堀川

ü  南 ― 長堀川 (1964年埋め立てられ、長堀通となった)

ü  東 ― 東横堀川 (現在は高架上を阪神高速が通っている)

ü  西 ― 西横堀川 (1971年埋め立てられ、高架上を阪神高速が通っている)

 

の南北2km、東西1km、現在の阪神高速環状線に囲まれた地域のうちの北側およそ3/4になる。このうち、本町通の北を北船場(きたせんば)、本町通の南を南船場(みなみせんば)と呼ぶ。

 

江戸時代に開発が進んだこの地域の西側、大阪市西区の西横堀と木津川に挟まれた地域を西船場(にしせんば)と称する。古くは下船場(しもせんば)とも称した。船場と西船場をあわせて、北に天満・中之島、南に島之内・堀江、東に上町に接する地域である。

 

語源については、以下の説が挙げられている。

ü  しばしば戦争があった場所で、「戦場」と呼ばれた。

ü  大坂城の馬を洗った場所で、「洗馬」と呼ばれた。

ü  砂浜であったため「砂場(さば)」と呼ばれ、これが転訛して「センバ」となった。

ü  古代は船着き場であって、着船場の「着」の字を省いて「船場」となった。

 

「せんば(船場、千葉、仙波)」は、船着き場・せばいところ。大阪の「せんば(船場)」と千葉県の「ちば(千葉)」が、地名として同じルーツを持っているというと、たいていの人が「うそーっ」とブーイングを発するでしょうが、同じなのだから地名は面白いのです。千葉は「せんば」とも読めるでしょう。

 

 大阪市内中心部で、大阪商業の中心部でもある、かつてはさまざまな業種の問屋が集まっていた地域を「船場(せんば)」と呼びます。言うまでもなく、大阪が「天下の台所」の役割を果たしていた時代、ここに諸国から荷物を積んだ船が着いたから「船場」という名がつきました。

 

 各地の「せんば」という地名には、いくつかの由来があります。

ü  一つ目は大阪の船場のような「船着き場」を意味する場合です。

ü  二つ目は「狭い場所」を意味する場合です。年寄りの大阪人は「せまい(狭い)」ことを「せばい」と言うことがありますが、これです。「せばい場所」が、いつしか「せんば」になり、それぞれに漢字が当てられたのです。

ü  三つ目は「滝、急流」を示す「せん」に「場」がついたものです。

ü  四つ目は海や川の浅いところを「瀬」と言いますが、それに「場」がついたものです。

 

ü  しばしば戦争があった場所で、「戦場」と呼ばれた。

ü  大坂城の馬を洗った場所で、「洗馬」と呼ばれた。

ü  砂浜であったため「砂場(さば)」と呼ばれ、これが転訛して「センバ」となった。

ü  古代は船着き場であって、着船場の「着」の字を省いて「船場」となった。

牧村は船着き場だったことに由来するとの説を最も妥当としており、現在でも広く知られている説である。伊藤忠商事や丸紅などは、船場を出発点とする企業だと言えよう。

 

 千葉県の「ちば」は、浦安に示されるような広い干潟がありますから、四つ目の「せば」が変化したものと考えることができますが、もう一つの捨てがたい説は、「台地」の端っこを意味する「つば」がなまったものだというものです。また房総半島には切り立っていて崩壊地名がつけられるような場所もあり、「つばゆ(潰ゆ)」に由来するという説もあります。

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