2017/10/23

孔子の思想(7)



孔子は、ここで大切なことを説いた。

仁を為すことは己に由る、人に由らんや
仁を行おうとするなら、自分自身に由る(自分で考え、自分で決めて、自分で行動する)。この己(自分)に由るとは、人間としての真の自由を意味する。人に由らん(人の意思、行動に頼っていては不可能である)。孔子が、仁は自分で行うと言う通り、自分自身の強い意志で行うことが必要である。

孔子は、質問を受けたとき、多くの場合人(相手)を見て(観て)その人にあった答えを返した。人は、一人一人違った心と素質を持ち、違った経験と環境を持って刻々と変わるこの世の中に生きている。したがって、仁を行うということについても、それぞれに適した方法が必要となる。孔子の説く道を、自分の道として生きることが大切なことである。そのためには、誰にも共通した指標となり得る教えが求められる。

弟子の顔淵が、その仁を行う項目を教えてほしいと請い、孔子は具体的に述べている。

礼にあらざれば、見ることがないようにしなさい。
礼にあらざれば、聴くことがないようにしなさい。
礼にあらざれば、言うことがないようにしなさい。
礼にあらざれば、動くことがないようにしなさい。

この教えは、礼(孔子は、真の礼を行うには仁が必要であると言う)に則さないことは避けるようにというものだ。見ること(目)、聴くこと(耳)、言うこと(口、言葉)、動くこと(身、行動)に自分でよく注意し、自分の意志(心)で礼(天の摂理(真理)に則した(反しない)この世を生きる人間としての規範や決まりや守るべきこと)を守り、節制、自制するようにと説いた。

顔淵は

「回(私)は優れた者ではありませんが、願って得たその言葉をこれから守ってゆきます」

と言った。

ここでの師弟の問答は、顔淵の高い素質と人間性に孔子が応えたもので、
仁の真髄ともいえる大切な内容が表現されている。孔子の一番弟子とも言われる顔淵は弟子の中でも優れており、孔子の彼に対する評価は常々、高いものがあったた。特に大切な人格の点で優れていることを孔子は認めていた。孔子の「回は(仁に)近い」との表現がありますが、孔子の説く礼を完全に守りきることは出来なくても、その顔淵の努力する姿は、孔子が納得できるものであった。

後にも(晩年)、孔子は先立たれた弟子の顔淵については

「回(顔淵)はよく聴いたことを守った、彼のように学への志が高く修養に努めた者は、他に見ることは出来ない」

と、その早い死を悼むとともに、その在りし日の修養努力を賞賛した。

子曰く、
「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」(泰伯)
孔子当時は、古詩(詩経等)は人の心を豊かにする大切な教材の一つであった。孔子は「詩経を一言もって表せば、思い邪なし」と言って賞賛している。(孔子には、詩経の一節を「楽しむも淫せず、哀しむも傷らず」という表現(言葉)もある)。詩経等の豊かな文学は、人の心(情操、情緒)を育てる大切なものと言える。

礼は人としての作法、行動の指針や形式であって、礼を知ることによって自らの行動に自信と安定が備わると言える。その上で孔子は、楽によって成るとしている。当時は、音楽が政治の場面においても重要な役割を持っていた。その意味においても、孔子は音楽を大切なものとした。そして、それ以上に孔子自身が音楽を愛し、楽しんだことが知られている。音楽も文学と同じく人の情操、情緒や徳を育てる大切な教養であると感じていたのである。

孔子は、楽器の演奏に聞きほれたり感動したりもした。自分でも演奏したり歌うことも好んだ。葬儀で泣いた日には歌うことはなかった、と表現されてもいまるから、(少なくとも、ある時期においては)日常的に歌っていたと言える。上手な人には、もう一度歌ってもらい、その後唱和したとも伝えられる。孔子は自分自身の体験もふまえた上で、良い文学と共に良い音楽が人を豊かににする大切なものであると言っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿