2017/10/10

孔子の人物像(4)


http://www.fruits.ne.jp/~k-style/index6.html 引用

孔子が説いた「君子」となるには、自己に厳しい修養なくしては困難である。孔子は、通常の多くの人々は、生まれ(性)には殆ど差がなくても、修養によって大差が生じるということを「性、相近し、習、相遠し」と表現した。上知(じょうち)と下愚(かぐ)(孔子は上記の言葉に続けて、ただし上知(生まれながらにして知る人)と下愚(生きることが、この世の道理に合わず苦しんでも学ばない人)は変わることがないと「唯、上知と下愚とは移らず」(陽貸)と言い、この表現に近い言葉も残っている。

「生まれながらにして之を知る者は上なり、学んで之を知る者は次なり、因(くる)しんで之を学ぶは又其の次なり、因(くる)しんで学ばず、民斯(これ)を下となす」(季氏)

孔子が、生まれながらという言葉を使う事は例外的といえる。上知と下愚とは、通常は見ることが困難なほど例外的な存在といえる。孔子は自身のことも、生まれながらに知る者ではないと言った。孔子は、殆どの人々が学ぶことにより修養を得ることが出来ると考えた。孔子によって残された言葉の多くが、君子を説くものであることがそれを示している。

以上が、孔子の言葉として残る人物像の概要である。これ以降は、論語の記述のそれぞれを見てゆく。

子曰、君子不重則不威。学則不固。主忠信。
無友不如己者。過則勿憚改。
子曰く、「君子、重からざれば則ち威あらず。
学べば則ち固ならず。
忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無かれ。
過てば則ち改むるに憚ること勿かれ」(学而)
子(し)とは先生のこと、ここでは孔子を指す。君子(良き人格者、仁を志し、仁を行う人)は、軽率であると威厳がない。孔子は、軽々しい言葉や行動は君子にふさわしくないと言う。学ぶことにより、頑固でなくなる。古の正しい教え、この世の道理や人の心に大切な(慈愛、真実の愛)等の徳を学ぶことにより、様々なことに寛容な人となると説いた。

忠信(真心、正しい思いや行いから得られる信頼等)を大切にし、自分より劣った者を友としてはならない、と言っている。これは決して、自分より劣った人といっさい付き合ってはならない、という意味ではない。それらの人々とは、一定の距離をおいて付き合うことが大切である。反面教師という言葉もある通り、様々な人々との節度ある付き合いであれば、お互い学びあえる。人は、ある面では優れていても、他の面では劣っていることが普通である。孔子が特に説いているのは、忠信(人としての真心、信頼できる人間性)において、自分に相応しくない者を友人としてはならないということである。この孔子の言葉には友とする人をよく見て、その人間性(善悪、優劣)を知り(見極め)なさいという大切な教訓が含まれている。

もし過ちを犯したなら、誰憚ることなくすぐに改めなさいと言う。孔子の言う過ちとは、どのようなことを表しているのか。孔子は邪な思いの無いことを大切なこととして尊重していていた。ここから、邪な思いから行われる不正なことを過ちと見ていたことは明らかである。過ちを改めるとは、悔恨の心を持つこと、懺悔の心に通じる。それを改めることにより、新たな自分を正しく生きることを意味する。孔子は改めるのに躊躇している暇はない、過ちがあったなら他の人を気にせず、ただちに改めなさい、と説いた。

子曰く
「詩三百、一言以て之を蔽う、曰く、思い邪なし」(為政)
孔子の在世当時、古詩(詩三百とは、古詩の内三百編前後に編纂されていた詩経、孔子が編纂との説もあり)が学問の対象の一つとして尊ばれていた。孔子も、詩経を尊いものとして大切に接していた。この当時、詩経としての編纂が成立していて、世の人々に知られていたと考えられる。孔子の言葉として、特に大切なのは「思い邪なし」である。「一言で表すなら」という孔子の言葉に注目して言い換えると、孔子が考える尊いものをあえて一言で表すなら「邪な気持ちが無いこと」となる。

子曰く、
「朝(あした)に道を聞かば夕に死すとも可なり」(里仁)
この世を生きている全ての人にとって、大切なものが簡潔に説かれている。朝に道(真理の言葉)が聞けたなら、その日の晩に死ぬことになっても良い(可なり)。孔子の説いた(その言葉の持つ真実、真理)を聞く(素直な心で受けとめる、知る)ことが大切であることが示される。この世を去ってしまう前に、それを聞く(知る)ようにと説いている。この言葉は、孔子の言葉(道)を聞く(知る)、あらゆる人に希望を与える。

道を極めようとする人にとって、この言葉は深い意味を持つ。この孔子の短い言葉は、孔子の説いた真実(真理)を示す。孔子は、常に生きることを説いた。できるなら徳を積み、学を好み、仁を行い、君子となり生きてほしいと。この世で一生懸命に生きることを説いた孔子が「死んでもよい」と言っているのだから、孔子の言葉の中では殆ど見られない異例なものである。この言葉は、通常においては実現が非常に困難な極致を示し、孔子が「死ぬことも可なり」という部分に大きな意味がある。そのためには道を聞くという条件がついており、孔子にとっては道を聞く(体得する)ということが、人がこの世を生きている最高の目標と解釈できる。

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