クリュタイムネストラとは?
ギリシア神話では、テュンダレオスとレダ(レーダー)の娘クリュタイムネストラは、神々の王ゼウスとレダ(レーダー)の娘でギリシアきっての絶世の美女であったヘレン(ヘレネー)と異父姉妹である。またクリュタイムネストラは、アガメムノン王の従弟タンタロスの妻でもあった。後に夫タンタロスがアガメムノンの策略で戦死(殺害?)したことで、心ならずもアガメムノン王の妻・王妃となった美しい女性とされる。
アガメムノンがトロイ戦争に長期間出征している間に、夫アガメムノンに憎悪を抱く王妃クリュタイムネストラは、アガメムノンの遠縁のアイギストスと愛人関係となり、その後、帰国したアガメムノンを二人で暗殺してしまう。しかし、この事実を知ったクリュタイムネストラの息子オレステスと娘エレクトラは、尊敬する父アガメムノン王の殺害を企てた母クリュタイムネストラとアイギストスを殺して復讐を果たす・・・
トロイア文明
トロイア文明はクレタ島、キュクラデス諸島、ギリシャ本土の東・南部、小アジア西岸の一部を含んでおり、最終的にはミケーネ文明によって統一されたエーゲ文明の一部でもある。トロイアは、ヨーロッパと小アジアの間のヘレスポントス海峡に近く、エーゲ海の小アジア側に位置している。トロイア文明の最盛時はBC2000年代と思われ、一般にはエーゲ文明の中に含めて考えられている。そこには9層の住居址(市と呼ばれているが城砦)が重なっている。
第1層(BC3000-2500年。前3500~前2700年)は、すでに城壁をめぐらし金属文化を持っていた。家屋は石の土台に煉瓦の壁が築かれている。遺物は石器・土器が主である。同じ文明圏に属する小アジアのヨルタルでは、金属製飾身具・土偶も発見された。すでに穀物や果樹が栽培され、家畜が飼育され通商が行われていたようである。
第2層(BC2500-2200年)は、城壁がより高く堅固なものとなる。黄金製の冠と容器と装身具・銀器・青銅製の武器など、いわゆるシュリーマンの言う「プリアモスの財宝」は、この層で発見された。これはトロイア戦争時代のものではないが、いわゆる代表的なトロイア文化といわれる重要なものである。この地が黒海とエーゲ海、ヨーロッパとアジア大陸が相接する好位置による貿易や、近くの原野の農産、後背地の鉱産により栄えた文化を形成した。シュリーマンがドイツに持ち帰った第7層の財宝は、第二第世界大戦時、ソ連軍が持ち帰った。以後、現在までロシアが保管している。この第2層の崩壊後は第3層、第4層、第5層(BC2200~BC1800年)と再興されて第2市の文化が続くが、貧弱な住居址にすぎない。
第6層(BC1800-BC1300年)の頃には、トロイアの第二の盛期を迎えた。城壁は最大城を囲むものであるが、遺構は乏しいものである。これはミケーネ文明に属するものである。第7層A(BC1300-1100年)はミケーネ文明の末期に当たり、有名なトロイア戦争は、この時期に起こったものとされる。第8層アレクサンドロス大王時代(BC336-323年)、この地はギリシャの植民地であった。第9層は、ヘレニズム時代からローマ時代の都市で、イリオンと呼ばれていた。BC4世紀まで栄えていたが、もはや単なる城砦にすぎない地となる。
エーゲ文明の終焉
その後、3派のギリシャ人が北方から南下して来た。BC2000年頃イオニア人がエーゲ海北部や小アジア西岸に住み着いた。BC1500年代からBC1400年代のギリシャには、幾つもの小さな王国が並存していたようである。クノッソスの文書庫から見つかった線文字Bの言語は原始的なギリシャ語であり、恐らく大陸のギリシャ人がクレタにまで勢力を及ぼし始めたことによると見られる。ミノア文明の滅亡の原因に、内陸から来た北方のギリシャ人たちの武力が関係していた可能性もある。
インド・ヨーロッパ語族の第2波となるドーリア人が、ペロポネソス半島北方から南下していたアカイア人の領域に侵入して来た。従来このドーリア人の侵入でアカイア人が滅び、エーゲ文明が終わったという説があったが、現在では認められていない。BC1400年頃、アカイア人が内陸ペロポネソス半島からエーゲ海に進出し、クレタ(ミノア)文明やミケーネ文明を滅ぼした。さらにBC1200年頃に大いに栄えていたはずのギリシャ人の宮殿は炎上・倒壊した。その後、大規模な建造物だけでなく、定住地の消滅と文字記録の消滅をもたらしたとされている。
その後の400年間、歴史資料のない時代に入っていく。エーゲ文明の終焉の原因は諸説あって、未だに決着をみていないのが現状である。
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