2017/10/27

孔子の思想(8)


子曰く、
「人にして不仁ならば、礼を如何。人にして不仁ならば、楽を如何」(八いつ)
孔子は、礼と楽を大切なものとしていた。それは、たとえば子供たちが家庭や学校で、礼儀作法を習得したり、学習して知識を得たり、文学や音楽等の芸術を学ぶことに通じる。孔子は、そうした教養を代表させて礼と楽を上げている。人として安定した行動を得るために、また人として豊かな情緒を得て成長するために、その重要性を説いた。

しかし、孔子はその前に仁の必要性を説いている。いかに礼儀作法に優れ、様々な知識を得ていても、文学や音楽や芸術、技術に優れていても、仁がなければ仕様がないと言った。人として、まず始めに人格形成が大切であり、何より優先されることが示されている。礼も楽も正しくその真価が生まれるためには、その基には人として仁が必要であると説いた。

子、川上(せんじょう)に在りて曰く、
「逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎(す)てず」(子罕)
孔子が川の辺に居た時に言った。
「逝く者は、この川の流れのようなものだ。昼夜を問わず、一時も止まることなく流れ続けている」
逝く者とは死に逝く者、過ぎ去る時に流されゆく者、変化してやむ事のないこの世を生きゆく者(現象世界に輪廻して止まない者)が想起される。常に変化して止まない状態を「昼夜をすてず」と表現している。

子曰く、
「其のなす所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉んぞ隠さんや。人焉んぞ隠さんや」(為政)
孔子のこの言葉は、この世を生きている人間の本質を的確に示している。人は自分の本性を隠し切る事は出来ない。そのなす所とは、話す言葉や行動のことでこれは対人の場で隠す事はできない。その由る所とは、その言動の由ってきたる基のことで、その心の思いをあらわす。その安んずる所とは、その人の心の思いが安定し、安心する本性のあり様を意味する。人はその本性の求めに従って、思いを起こし、その思いに従って行動を起こす。したがって人の話す言葉や行動をよく見て、その思いを観て、その本性のあり様を察すれば、その人を知る事が出来る。人は、その本性を隠す事はできないと説いた。この言葉は、対人の関係においてその相手の言葉、行動、思い、本性をよく見て、また観察してその正体を見抜くようにとの思いやりのある言葉である。

孔子は君子になることを説き、人として向上することを説いた。ここで孔子が隠せないと言っている人とは、その本性のことであることが解る。この言葉から、人として大切な事を深く読むこともできる。言葉や行動を大切に正していくこと、思いを大切に正していくこと、その本性を大切に正していくことが、人としての向上を得る方法であるとも読み取ることが出来る。
人をどうして隠す事ができようか」と繰り返し説いている。

子曰く、
「貧しきと賤しきとは、是れ人の憎む所なり。其の道を以ってこれを得ざれば、去らざるなり」(里仁)
この世の中は、貧しい人と富める人を作り出す。そして貧しきと賤しきは人が嫌がるものであると言う。孔子は道に適ったことをしていて得るものが得られず、貧しい生活をしているのであれば、それにとどまるべきであると言う。

貧富の差は、いつの時代にも存在する。孔子は富んでいる事を取り上げ、非難しているわけではない。しかし、人が真に求めるものは富貴ではないと孔子は考えた。人が真に求めるべきものは道である、従って道を行っていて貧しい生活であるのなら、そこを去らないと言う。この気持ちを、さらにはっきりと表している言葉もある。

子曰く、
「たとえ、粗食をし水を飲み、肘を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し」(述而)
「たとえ粗末な食事をして水を飲んで、肘を枕替わりにして寝るような貧しい生活であってもいい。楽しい生活は、その中にもある。道に外れたことをして、利益を得て富かになり、且つ貴いと言われるようになったとしても、私にとっては、それはまるで浮雲のようにはかないものである」

浮雲の如しとは、取るに足りない求めるに値しないもの。この孔子の言葉においては、不義にしてという表現が重い意味を持つ。孔子の求めた君子としての生活とは、決して富貴な生活というものではなく、君子としての正しい生活であった。粗食と水、肘の枕という表現が、孔子の強い意志を示している。
http://www.fruits.ne.jp/~k-style/index6.html 引用

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