一書(三)
兄の火酢芹命よく海幸を得たので海幸彦と呼ばれ、弟の彦火火出見尊よく山幸を得たので山幸彦と呼ばれた。兄は風雨のたびにその道具を失ったが、弟は風雨であってもその道具をなくさなかった。ある時、兄が弟に、「我、試(こころみ)に汝と幸換えんと欲う」ともち掛け弟も承知して交換した。そこで兄は弟の弓矢を持ち、山で獣を狩り、弟は兄の釣針を持ち、海で魚を釣るも、共に獲物を得られず、空手(むなで)で帰る。兄は弟の弓矢を返し、己が釣針を求むるも、その時、弟はすでに釣針を海中に失いて、探し出すことできず。そこで、別(こと)に新しい釣針を千(ちぢ)作って渡したが、兄は怒り受け取らず、元の釣針を急責した。〜中略〜
浜辺で低(うなだ)れ愁え吟っていた弟は、川雁(かわかり)が罠にかかって困厄(たしな)むのをみて憐れみ、解きて放ち去ると、しばらくして塩土老翁が現れ、無目堅間の小舟を作り、火火出見尊を乗せて海の中へと推し出した。すると自然(おのずから)に沈み、たちまち良い可怜御路(うましみち)に出くわした。そこで流れのままに進むと、海神の宮に辿り着く。すると、海神が自ら延(ひ)き入れて、多くの海驢(アシカ)の皮を八重に敷き、その上に坐(いま)さしめる。兼ねて饌(みあえ)百(もも)机を設け(さらに多くの品々を載せた机を用意し)、主人(あるじ)としての礼を尽くす。
そして、「天神の孫、何を以ちてか辱く臨(いでまし)つる」あるいは、「頃(このごろ)我が子来て語りて曰く、『天孫(あめみま)海濱(うみへた)に憂え居すといえども、未だ虚(いつわり)まことを審(し)らず』と。蓋(けだ)し之れ有るか」と従容(おもむろ)に尋ねた。彦火火出見尊は事情を全て話した。そして住留まり、海神の子の豊玉姫を妻とし、睦まじく篤愛(にたしみ)、そして三年が経った、という。
彦火火出見尊が帰ることとなり、海神が鯛女を召してその口を探れば、釣針を得る。そこで、その釣針を彦火火出見尊に進(たてまつ)る。「これを以ちて汝が兄にあたえん時に、乃ち言出して、『大鉤(おおち)、踉鉤(すすのみぢ)、貧鉤(まぢち)、癡鉤(うるけぢ)』と曰うべし。言い訖りて、則ち後手に投げ賜うべし」と教えそれを返却する。
そして鰐魚(わに)を召し集(つど)えて、「天神の孫、今まさに還り去らんとす。等(いましたち)幾日の内に、以ちて致し奉らん」と尋ねると、様々な鰐魚が、それぞれの体長に応じてその日数を申し出た。その中に一尋鰐魚(ひとひろわに)がいて、自ら、「兄、高田を作らば、汝は窪田(くぼた)を作るべし。兄、窪田を作らば、汝は高田を作るべし」と教えた。海神、誠を盡(つく)して助け奉ること此の如し。
そこで彦火火出見尊、帰って来たり、一(もはら)に海神の教えに遵(したが)いて、依りて行と、後に火酢芹命は日を以ちてやつれて「我すでに貧(まづ)し」と憂えて言う。果てには弟に伏(したが)った。弟が潮満瓊を出すと、兄は手を上げて溺れ困しみ、反対に潮涸瓊を出すと元に戻る、という。
これより前、豊玉姫は天孫に、「妾、すでに有娠めり。天孫の御子を、豈(あに)海中に産むべけんや。故、まさに産む時に、必ず君がもとにゆかん。如し我が為に海邊に屋を造り、以ちて相い待たば、これ望む所なり」と申し上げた。そこで彦火火出見尊は郷に帰ると、鵜の羽以ちて屋根を葺き産屋を作るが、屋根を未だ葺き合えぬうちに、豊玉姫が大亀に乗り、女弟の玉依姫を連れ、海を照らしながらやって来た。すでに臨月(はらみのつき)を迎え、産む期(とき)方(まさ)に急りいた。
そこで葺き合うるを待たずにただちに入り、天孫に、「妾、方に産むときに、請う、臨(み)ること勿(なか)れ」と従容に語った。天孫が内心その言葉を怪しみて、ひそかにと覗うと、八尋の大き鰐に姿を変えていた。しかも、天孫が私の屏(かき)を視るを知りて深く恥じ、恨みを抱いた。すでに子が生まれた後、天孫が訪れて、「御子の名を何(いか)になづけば可(よ)けん」と尋ねると、「彦波瀲武盧茲草葺不合尊となづくべし」と言い訖りて、海を渉りただちに去ってしまう。そこで彦火火出見は歌を詠んだ。
飫企都鄧利 軻茂豆勾志磨爾 和我謂禰志 伊茂播和素邏珥 譽能據鄧馭登母(沖つ鳥鴨著く嶋に 我が率寝し妹は忘らじ 世の尽も)
※意味【鴨の寄り着く島で、我が床を共にした妻は、決して忘れぬだろう、我世ある限り。】
または、彦火火出見尊は婦人(おみな)を募り、乳母(ちおも)・湯母(ゆおも)・飯嚼(いいかみ)及び湯坐(ゆえひと)とし、すべて諸部(もろとものお)備行(そなわ)りて養(ひだ)し奉る。その時、代わりに他の婦人の乳によって皇子を養した。
この後、豊玉姫はその子が端正(うるわ)きことを聞いて、大いに憐れみの心を重ね、また帰って養したいと欲うが、義(ことわり)に於(お)きて可(よ)からず。そこで女弟の玉依姫を遣わして、養しに行かせた。その時、豊玉姫は玉依姫に託して報歌(かえしうた)を奉った。
阿軻娜磨廼 比訶利播阿利登 比鄧播伊珮耐 企弭我譽贈比志 多輔妬勾阿利計利 (赤玉の 光はありと 人は言へど 君が装し 貴くありけり)※意味【紅き玉は輝けると 人々は申しますが、貴方の姿はそれにも増して 壮麗に思います。】とある。
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