2005/08/20

三輪山と大神神社(1)

 奈良の山といえば大和三山(耳成山・畝傍山・天香具山)が有名ですが、もうひとつ「三輪山」を忘れてはなりません。この三輪山全体が、日本に沢山ある神社の中でも最古の歴史を持つといわれる「大神(おおみわ)神社」のご神体であるところから、非常に神聖視されているばかりでなく、山中のいたる所から祭器が出土している事でもよく知られています。

大神神社のWebページには

<ご祭神大物主神は『古事記』『日本書紀』によれば、神代の昔、少彦名命と協力してこの国土を拓き、農業・工業・商業すべての産業開発、方除、治病、禁厭(まじない)、造酒、製薬、交通、航海、縁結び等、世の中の幸福を増進することを計られた人間生活の守護神であり、世に大国主神の御名で広く知られ、詳しくは倭大物主櫛甕魂命(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと)と申し上げる。

後に、この神は御自らの御思召しにより、その御魂(幸魂-さきみたま・奇魂-くしみたま)を三輪山に永くお留めになり、それ以来、今日まで三輪山全体を神体山として奉斎している。それ故、本殿を持たずに神代の信仰の形を今に伝える、我国最古の神社である>

とあります。

<大物主神の大物のモノは精霊をさす語で、諸々の精霊の首領ということだろう。『日本書紀』では、国譲りのあと八百万の神の首領として天孫に奉仕する神と記載され、大国主神の別名ともされているが元々は三輪山、すなわち御諸山の山にいた蛇体の神であったらしい。

『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少名毘古那神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れとば国造りはうまく行くと言い、大国主神はこの神を祀ることで国造りを終えた。この山が三輪山とされる。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として三諸山に祀ったとある。

 <『日本書紀』によると祟神天皇の七年、大物主神が倭迹迹日百襲姫命に神がかりし、また天皇の夢中に現れて告げたことにより、三輪君の祖となる大田田根子をして、この神を祭らしめる事となった。また同書には、三輪の神が小蛇の姿となって倭迹迹日百襲姫命のもとに通ったという、神婚伝承も載せている。国史にも奉幣・昇階などの記事は多くみえ、宮中の尊崇あつかったことがわかる>などの記述が『記紀』に記されています。

崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れ「こは我が心ぞ。意富多多泥古(太田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と告げた。天皇は早速、活玉依毘売の末裔とされる意富多多泥古を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。これが現在の大神神社である。

活玉依毘売のもとに毎晩麗しい男が夜這いに来て、それからすぐに身篭った。しかし不審に思った父母が問いつめた所、活玉依毘売は、名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを告白した。父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。

翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると三輪山の社まで続いていた。糸巻きには糸が3回りだけ残っていたので、「三輪」と呼ぶようになったという。
出典Wikipedia

●三輪そうめんの産地
<素麺がいつのころから三輪で作られたかについては、記録されたものはないが三輪素麺と神社については古い伝承がある。十代崇神天皇の七年、大物主命の五世の孫、大田田根子命(おおたたねのこのみこと)が、この神社の大神主に任ぜられて以来、その子孫が代々その職を継いで奉仕していた。

その十二世の孫に、従五位上大神の朝臣狭井久佐(さいくさ)の次男穀主(たねぬし)がいる。この穀主は敬神巣崇祖の念が篤く、大物主の神にまつわる「古事記」伝説を後世に伝え、この地方の産業を発展させるために糸のごとき細い素麺を創始したといわれています>

●ポリネシア語による解釈
三輪山(467m)は桜井市北部にあり、美和山とも記し三諸山(みもろやま)、御諸山ともいいます。南は初瀬川、北は巻向(まきむく)川で限られ、背後には巻向山、初瀬山が連なります。松杉の老木で覆われた、端正な円錐形の山です。この山の西麓には神殿が無く、この山をご神体とする大神(おおみわ)神社があり、山裾を縫って山辺の道が巻向、石上へと続いています。

『日本書紀』神代上第8段に、大己貴神の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)が「日本(やまと)国の三諸山」に「大三輪の神」として鎮座したとあります。この神は『古事記』大国主神の項には「倭の青垣の東の山の上に伊都岐奉」る「御諸山の上に坐す神」としてみえます。

また、崇神紀10年9月条には「ヤマトトトビモモソヒメ」と御諸山の神、大物主神との神婚説話があり、『古事記』崇神天皇の項には意富多多泥古の出生に関する三輪山伝説が記され、遺(のこ)った「三勾(みわ)の麻糸」にちなんで「其地を名づけて美和と謂ふ」とあります。

この「みわ」は

(1)「輪形の山」の意
(2)「己輪」で蛇がとぐろを巻いた形の山の意
(3)「御岩」の訳
(4)「水曲(みわ)」の意

などの説があります。

この「みわ」、「みもろ」は、マオリ語の「ミヒ・ワ」、MIHi-WA(mihi=sigh for,greet,admire;wa=place,area)、「崇敬する(神の鎮座する。聖なる)・場所(地域。そこの山)」、「ミヒ・マウ・ロ」、MIHI-MAU-RO(mihi=sigh for,greet,admire;mau=fixed,established,caught;ro=roto=inside)、「崇敬する神が・その内部に・鎮座している(山)」の転訛(「ミヒ」の語尾の「ヒ」が脱落し、「マウ」のAU音がO音に変化して「モ」となった)と解します>
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

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