パガニーニ自身は技術が他人に知られるのを好まなかったため、生前は殆ど自作を出版せず自分で楽譜の管理をしていた。その徹底ぶりは凄まじいもので、自らの演奏会の伴奏を担当するオーケストラにすらパート譜を配るのは演奏会の数日前(時には数時間前)で、演奏会までの数日間練習させて本番で伴奏を弾かせた後、配ったパート譜はすべて回収したというほどである。しかも、オーケストラの練習ではパガニーニ自身はソロを弾かなかったため、楽団員ですら本番に初めてパガニーニ本人の弾くソロ・パートを聞くことができたという。その背景として、パガニーニが無類の「ケチ」だったと言う事の他に、この時代は著作権などがまだ十分に確立しておらず、出版している作品ですら当たり前のように盗作が横行していた為、執拗に作品管理に執着するようになったとする説もある。
このようにパガニーニ自身が楽譜を一切外に公開しなかったことに加えて、死の直前に楽譜を殆ど焼却処分してしまった上、死後に残っていた楽譜も遺族がほぼ売却したため楽譜が散逸してしまい、大部分の作品は廃絶してしまった。現在では、無伴奏のための24の奇想曲や6曲のヴァイオリン協奏曲(12曲あったといわれている)などが残されている(第3番~第6番が見つかったのは、20世紀に入ってからである)
現存している譜面は、彼の演奏を聴いた作曲家らが譜面に書き起こしたものが殆どとも言われる。また、同じ理由から弟子をカミッロ・シヴォリ一人しか採らず、そのシヴォリにも自分の持つ技術を十分には伝えなかったため、演奏の流派としてはパガニーニ一代で途絶えることとなってしまった。
パガニーニは、1800年から1805年にかけて表立った活動を辞め、ギターの作品を数多く作曲している。これは、フィレンツェの女性ギター奏者を愛人としていたためといわれている。
パガニーニは子供の頃から病弱であったが、1820年に入ると慢性の咳など体調不良を訴え『毒素を抜くため』に下剤を飲み始める。1823年には梅毒と診断され、水銀療法とアヘンの投与が開始された。さらに1828年頃には結核と診断され甘汞を飲み始め、さらに下剤を飲み続けた。
その後、水銀中毒が進行して次第にヴァイオリンを弾くことができなくなり、1834年頃についに引退する。そして1840年に水銀中毒による上気管支炎、ネフローゼ症候群、慢性腎不全によりニースで死去。死因は喉頭結核もしくは喉頭癌といわれているが、主治医の診断から結核ではなかったことがはっきりとしており、記録に残る症状(歯肉炎、震戦、視野狭窄など)から水銀中毒だったことは明らかである。
遺体は防腐処理を施されて各地を転々とし、改葬を繰り返した末に1926年にジェノヴァの共同墓地にようやく安置された。
出典Wikipedia
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