2005/12/11

カントルーブ オーヴェルニュの歌(第3集)


オーヴェルニュ地方の由緒ある家庭に生まれる。4歳半から、ショパンの友人だったアメリー・デゼールにピアノを入門。バカロレアを取得したのちボルドーの銀行に勤めるが、病気のためマラレーの実家に戻る。恢復後にパリに上京して音楽の道に進むことを決心、1901年にスコラ・カントルムに入学してヴァンサン・ダンディとシャルル・ボルドに師事。やがてデオダ・ド・セヴラックやイサーク・アルベニス、アルベール・ルーセルと親交を結んだ。

 

1925年に数人のオーヴェルニュ出身の若者たちと文化団体「ラ・ブレ(La Bourrée)」をパリで旗揚げし、郷里の民謡や景勝地を広めようと努めた。カントルーブ自身は  「農民の唄というものは、形式の点ではともかくとしても、情緒や表現においては、最も純粋な芸術の水準にまで、しばしば到達している("les chants paysans s'élèvent bien souvent au niveau de l'art le plus pur, par le sentiment et l'expression, sinon par la forme".)」と信じていた。

 

ルエルグやリムーザン、ケルシーの民謡に基づく《オート・オーヴェルニュの唄》や地元の宗教的な民謡による《オーヴェルニュの宗教歌(Chants religieux d'Auvergne)》、フィリウス・ルベスクの詩による《ガリア人の賛歌(L'Hymne des Gaules)》を作曲し、ケルト吟遊詩人大学の創設にも関与した。

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