第2曲の『イベリア』 は、一番最初に完成した曲。3つの曲の中では最大の規模を持ち、3つの曲から構成されているが演奏は続けて行われる。初演は1910年2月に行われた。各曲の作曲時期、楽器編成は異なる。組曲の体裁はとられているが、各曲は半ば独立した作品と見ることができる。以下の曲順は全曲の作曲後に決められたものであるが、この順に演奏する場合と完成順に演奏する場合とがある。また、しばしば『イベリア』のみが単独で演奏される。
1) 街の道や田舎の道を抜けて(par
les rues et par les chemins)
1906年~1912年,ドビュッシー40代後半の作。着手に先駆け「悪夢のような」離婚騒動のすえ1905年8月にリリーと別れたドビュッシーは、パリ郊外ブローニュ森大通り80番地の戸建てへ移り住んだ。銀行家の妻だった新妻エンマは贅沢な暮らしに慣れており、シュシュの誕生で乳母を雇う必要も生じ生活費を圧迫していた。
新婚旅行から戻った直後にリリーは自殺を謀り、これが報道されたことにより多くの友人が彼の下を離れていった。そうした私生活を反映してか交響詩『海』以降も筆は進まず、ラウル・バルダック宛書簡(1906年2月24日)には
「とても少ししか音楽を書いていないのですが、まったく気に入りません」
と記し、デュラン(同4月18日)には
「虚無の工場の中で腐り果て続けている」
と愚痴をこぼしている。
『映像』はこうした時期を経て書かれ、完成までに6年半を要した。
2) 夜の薫り(les
parfums de la nuit)
ドビュッシーが『映像』を最初に構想したのは、1896年頃のことである。この時はピアノ曲独奏用の二編を含んだ全二巻十二曲からなる大規模な連作として構想され、1903年には『管弦楽のための映像』となる二台ピアノと管弦楽のための三曲を、二巻のピアノ独奏が挟む大規模な作品となり、デュラン社と契約書も交わされている。しかしながら、3つの映像が連作として言及されたのは、これが最後であった。
二年後のデュラン宛て書簡(1905年5月16日)の中で、この三曲は2台ピアノのための映像として再度触れられた。この時は、第1楽章が「悲しきジーグ」(Gigues tristes)、第2楽章「イベリア(ibéria)」、第3楽章「ワルツ(Valse)」の3曲となり,楽章が入れ替えられている(Debussy 1927)
3) 祭りの日の朝(le
matin d'un jour de fête)
全曲初演は当初、シュヴィヤールへ依頼することが考えられたものの、彼は「ジーグ」だけを別に指揮することを望んだため依頼を断念。「イベリア」の演奏解釈に難を感じていたにもかかわらずピエルネに変更され、結局は作曲者自身の指揮により、コロンヌ管弦楽団の定期演奏会で初演された。批評家の評価はいつもの如く大きく分かれたものの,否定的な見解は押し並べて少なかった。
この『管弦楽のための映像』こそは、ドビュッシーの「印象主義音楽」の真髄を楽しむのには、まさにうってつけの作品と言えるような、その技巧が晩年に至っていかに究められたかがわかる作品だ。ただし、ドビュッシーのビギナーがいきなりこれを聴いてしまうと、恐らくは
「なんじゃ、こりゃ?
さっぱり、わけわかんねー・・・」
ってな事になろうかと思われるが ニヒヒヒ ( ̄∀ ̄*)
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