2005/12/06

修善寺(箱根・鎌倉・伊豆旅行)(6)

翌日は修善寺を予定していたが、紅葉のシーズンで箱根同様に修善寺の方もなかなか宿の予約が取れず、結局湯河原に泊まることにした。湯河原は梅の季節に有名な梅林を見に行ったが、泊まりはこれが始めてであり、ご馳走と温泉を堪能して終日部屋に閉じこもっていた。

 

夜が明けると、修善寺に直行だ。特に関係はないが、ン十年前に両親が新婚旅行をしたのが、この修善寺だったらしい。うろ覚えながら「修善寺ホテル」云々と言う話を聞いていた記憶を頼りに、趣味が悪いと思いながらも(単に検索が面倒だっただけ?)、そこに泊まろうかと考えていたが、生憎とここも予約が埋まっていた。

 

そもそも修善寺に行こうと思い立ったのは、ノスタルジックな思い出に浸ろうというような考えでは微塵もなく、単に紅葉の名所だと知ったからに過ぎない。

 


<中心に桂川が流れ、その沿岸に温泉宿が並ぶ。温泉街の中心の川の中のあずまやに無料の「独鈷の湯(とっこのゆ)」という温泉がある(ただし街中であること、入浴者のマナーの問題から原則として入浴禁止となっている)

 

すぐそばに、地名の由来となった「修禅寺(しゅぜんじ)」というお寺がある。温泉地は、日本百名湯にも選ばれている。以前は独鈷の湯を含めて7ヶ所あった外湯(共同浴場)は、一時期地元住民専用の浴場が残るのみとなっていたが、2002年に観光客も入浴可能な「筥湯(はこゆ)」が出来た。200410月には、台風22号によって温泉街に大きな被害がもたらされた。

 

修善寺温泉の歴史は、平安時代に弘法大師が開いたという修禅寺の歴史とともにある。

 

 

独鈷の湯も弘法大師が湧出させたとされ、これが修善寺温泉の起源である。川原で病気の父親の体を洗う少年のために「弘法大師が独鈷を用いて岩を砕き、そこからお湯が湧出した」との開湯の伝説が残る。鎌倉幕府の時代には、源頼家が修禅寺に幽閉された。明治時代には静かな環境が文豪に愛され、夏目漱石らが訪れた>

 

<修禅寺は、静岡県伊豆市修善寺にある曹洞宗の寺院。山号は福地山。夏目漱石の「修善寺の大患」、岡本綺堂の「修善寺物語」、朧太夫の「今申楽朧座『修禅寺』」でも名高い。修善寺温泉街の中心にあり、修善寺の地名の元になった。地名を修善寺(しゅぜんじ)、寺院を修禅寺(しゅうぜんじ)と呼ぶのが正しいと認識されていることが多いが、正確には両方とも「しゅぜんじ」と読む。「しゅうぜんじ」という呼び方は、大昔地元の人々が親しみをこめて呼び始めたもので、正式な呼び名ではない>

 

大同2年(807年)に空海が創建したと伝えられ、当初は真言宗に属していた。当時は周辺の地名が桂谷であったことから、桂谷山寺と言われ、『延喜式』には「伊豆国禅院一千束」と書かれる程の寺院であった。その後、鎌倉時代初期に修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになった。

 


また源頼朝の弟の源範頼と、その息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家が当寺に幽閉され、その後この地で殺害されたとしても知られている。建長年間(1249年~1255年)に、元の密偵と疑われていた蘭渓道隆が避難のために来住し、それに伴って臨済宗に改宗された。蘭渓道隆は、南宋の理宗から「大宋勅賜大東福地肖盧山修禅寺」という額を賜り、大陸にまで修禅寺の名を広めた。しかしこの寺額は、1863年の火災で焼失した。

 

その後、康安元年(1361年)の畠山国清と足利基氏の戦乱の被害を受け、更に応永9年(1409年)の大火災で伽藍が全焼し、荒廃した。伊豆一国を収めた伊勢新九郎長氏(北条早雲)が、彼の叔父の隆渓繁紹に曹洞宗の寺院として再興させた。現在の本堂は明治16年(1883年)に再建したものである>

 

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