2005/12/23

ドヴォルザーク 交響曲第9番『新世界より』(第4楽章)

 



4楽章は、非常に有名である。CMや効果音楽などでもよく使われるから、(特に冒頭の部分は)殆どの人が知っているはずだ。冒頭からオーケストラが全開である。

 

まず印象的な導入部から始まるのは総ての楽章に共通するが、第4楽章は特に単なる導入部にしておくのが勿体ないような、非常にインパクトの強いテーマで幕を開ける。この導入部に続いてトランペットが輝かしく、有名な旋律を歌う。続く弦楽合奏が、これまた美しい。

 

3楽章同様に、長閑な感じの民謡風メロディが現れる。冒頭の嵐のような部分を乗り越え、弦のピッチカートなどでひと息入れた後、第2楽章の「遠き山に~」のメロディが何度か繰り返しで登場してくるが、第4楽章の第1主題と似ているため、よく聴いていないと聴き逃しやすい。第1楽章第1主題と第2楽章の「遠き山に~」の主題が絡むが、ここはよく聴いていないと気付かないような、デリケートな処理である。

 

「ドヴォルザークは構成が苦手」どころか、この部分を聴く限りベートーヴェンやブラームスを聴いているような錯覚にすら陥るほどだ。それでいて、ベートーヴェンやブラームスのような圧迫感は感じさせず、素材をうまく開放しているところが素晴らしい。

 

民謡風のメロディが実に泣けるほど美しく、故郷を思うドヴォルザークの哀感が切々と伝わるようである。。さらに、どこまでも美しさが深まっていくのが、この曲の凄いところである。

 

1楽章の第1主題と、第1主題が絡み合いながらクライマックスへとなだれこむが、第2楽章の「遠き山に~」の主題に第3楽章の第1主題が小さく絡んでいる。これまた、実に心憎い構成だ。最後の1音はフェルマータ(延長記号)の和音をディミヌエンド(強弱標語の一。だんだん弱くの意)しながら出すという非常に興味深いもので、指揮者ストコフスキーは、これを「新大陸に、血のように赤い夕日が沈む」と評した。

 

なお、この『新世界より』と言う曲は、一部に(黒人霊歌をそのまま並べただけ)といった批判もあるが、勿論これはデタラメであることは言うまでもない。確かに、黒人霊歌が沢山使われてはいるものの独自のアレンジを加えているし、故郷ボヘミアの民謡の要素なども巧みに織り交ぜてもいるのである。また、タイトルの『新世界より』というのは「新世界アメリカを描写した」という意味ではなく、ホームシックに罹っていた田舎モノのドヴォルザークが「新世界アメリカより、故郷ボヘミアへの想いを綴った」のである(『New World』ではなく『From the New World』)

 

全般的にはボヘミア音楽の語法によりながらも、アメリカで触れたアフリカ系アメリカ人やネイティヴ・アメリカンの音楽要素が見事に融合されており、それらをブラームスの作品研究や第7・第8交響曲の作曲によって培われた西欧式の古典的交響曲のスタイルに昇華させた。このように、東欧・西欧・アメリカの3つの地域の音楽が、有機的な結合で結びついた傑作というに相応しい曲である。

 

ブラームスの支援により、一流作曲家として道を拓かれたのを切っ掛けとして二人の交友関係が始まった。ドヴォルザークの仕事場に遊びに来たブラームスは、何気なくゴミ箱に山と詰まれた失敗作を漁った。クシャクシャになった五線譜を伸ばし、そこに目を落としたブラームスはビックリ仰天。そこには、メロディ創りの不得手なブラームスには涎が出そうな美しいメロディの数々が、いとも惜しげもなく捨ててあったのだ。

 

「ああ・・・私ならドヴォルザークのゴミ箱から、幾つもの名曲が創れるのに・・・」

 

構成には大いに自信のあるブラームスが、ここを訪れる度に嘆いて見せたというエピソードは有名である。つまり、美しく魅力的なメロディなら幾らでも造作なく産み出せるが、それをひとつの音楽として構成するのは得意ではなかったのがドヴォルザークで、片や楽想創りに散々苦心しながら、得意の構成力でつまらないメロディを魅力的に見せるのが得意だったブラームス。このように対照的な二人が、互いに自分の苦手な才能を認め合ったからこそ二人の関係が長続きしたのだろう。

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