2005/12/02

鎌倉(箱根・鎌倉・伊豆旅行)(2)

前回、F社面接の折りに訪れた時に、普段は引いた事のないおみくじにチャレンジして「凶」を引いてしまった経緯があったため、再度同じおみくじを引いてみる。あれから2年くらいの間に、上京しマンスリー物件を転々としながらようやく都下に落ち着いて、某国務機関に勤めて早1年以上が経過していた(結果は小吉)

 

前回は舞台のところでビールを飲んでいると、遠足とオボシキ小学生の集団がやって来てジロジロと見られてしまったが、この日は中高年の団体で舞台が占拠されていたため、境内をグルリと一周して外へ出る。

 

自転車で走る途中で見つけた酒屋で「鎌倉ビール」を買い、高徳院へ行こうかと迷ったが、平日とはいえさすがに紅葉シーズンだけに混雑していたため、今回はコースから外した。

 

<高徳院・・・国宝阿弥陀如来坐像(鎌倉大仏)を本尊とする浄土宗の寺。大仏は青銅製で、台座を含め高さ13.35メートル、顔の長さ2.35メートル、目の長さ1メートル、耳の長さ1.9ートル、重量約121トン。東国にも大仏を造ろうとした源頼朝の遺志を受け継ぎ、仕えていた稲多野局が計画したといわれる。

 

暦仁元年(1238)に着工され、6年後に完成した。

 

しかし、最初の大仏は木造であったため台風によって崩れてしまい、その後建長4年(1252)から青銅の大仏が鋳造された。一辺12メートルの鋳型を下から徐徐に接ぎ合わせて造られたが、原型作者も棟梁となっていた鋳物師も明らかになってはいない。この時、一緒に建立された大仏殿は室町時代、大地震による津波で海に流された。  以来、ずっと露座のままである>

 

津波で寺も流され長く廃寺と化していたが、江戸時代の正徳2年(1712)、増上寺の祐天上人が豪商野島新左衛門の協力を得、寺と大仏を復興し現在に至る。大仏は体内が空洞になっており、中に入ると頼朝の守り仏や祐天上人像を見学する事が出来る。境内には、女流歌人与謝野晶子が詠んだ

 

「鎌倉や御仏(みほとけ)なれど、釈迦牟尼(しゃかむに)は美男におわす夏木立かな」 

の歌碑が立つ>

 

以前に見た、あの端正な顔立ちの大仏さんとの再会に心惹かれながら、紅葉のありそうな銭洗い弁財天へ向かう事にした。

 

前に来た時は初めてでもあり、まったく土地無案内だったがために、標識などを確認しながら走ってきたせいか、案外とスムーズに目的地に辿り着いたものだったが、中途半端に土地勘があるつもりでいたせいで、今回は完全に道に迷ってしまった。

 

(銭洗いは、確かこっち方面だった気がする・・・)

 

うろ覚えの記憶に頼り、道標を禄に見なかったのがいけなかった。途中から市街地に出てしまい、明らかに「鎌倉」という感じの寺社の蔭すらまったく見えなくなってしまったのだが、今更引き返すも中途半端なところまで来てしまい、惰性でそのまま走り続けていると

 

「藤沢まであと1km

 

という標識にぶち当たり

 

(ナヌ?  藤沢・・・???)

 

と面喰ってしまった。

 

そうして散々にまごついた上で、ようやくの事で銭洗い弁財天に到着した。

 


 

<銭洗弁財天宇賀福神社(通称・銭洗い弁天)は、昔かくれ里と言われていたようで、山の中にポツンと小さく開けた場所にある広場の奥・右手に小さな本殿があり、その左側の洞窟に弁財天が祀られている>

 


 

<弁財天にお参りして、その前の小さな池でお金を洗うと「お金が増える」と信じられていて、何時も大勢の人が硬貨やお札をザルに入れて洗っている風景が見られる。このお金を洗う事の歴史は古く、鎌倉時代の第5代執権北条時頼はこの福の神を信仰し、自らこの水で銭(通宝)を洗ってお祈りして、巳の日を選んで人々に参拝させたところから始まったようだ。

 

本殿右手の社務所を中心に、幾つかの小さな社殿が裏山の中腹まで建っていて、巡回して参拝できるようになっている。銭洗い弁天の御本体「宇賀福神」は水の神で、身体は蛇・頭は人間の老人の形をしていると言われる。そんな所から「巳の日」は、特に大勢の参詣者(お金を洗いに来る人?)が、多く賑わっている>

 

確かに離れた立地にポツンと、しかも急勾配の坂道を登ったところにあるにもかかわらず、相変わらずこの日も学生らで賑わっていた。期待に反して、紅葉するような木が殆ど見当たらなかったために、土産だけを買って早々に「化粧坂」へと移動する。

 

レンタサイクルの店で貰った地図に「紅葉の名所」と謳ってあったうちのひとつが、この化粧坂である。ネットでも見た記憶があり、艶っぽい名前からして興味をそそられたこともあって是が非でも見ておきたかったのだが、実際に目にしたところは名前のイメージとはまったくかけ離れ、ムキ出しの岩のような巨石がゴロゴロと転がっているような、非常に険しい坂道であった。

 


 

「ケワイ(化粧)坂じゃなくて、険しい坂だよ・・・」

 

通りがかった小学生のグループが、考えていたのと同じ事を言っていたのには、笑ってしまった>

 

そして鎌倉の旅の締めくくりは、鶴岡八幡宮だ。

 


 

<当宮は康平6年(1063)、源頼義公が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した、京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。

 


 

その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝公は、治承4年(1180)鎌倉に入るや直ちに神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しし、 建久2年(1191)には鎌倉幕府の宗社に相応しく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としました。

 

また頼朝公は流鏑馬や相撲、舞楽など、今日にも引き継がれる社頭での神事や行事を興し、関東の総鎮守として当宮に厚い崇敬の誠を寄せたのです。以降、当宮は武家の精神のよりどころとなり、国家鎮護の神としての信仰は全国に広まりました。

 

当宮への信仰を背景に、鎌倉を中心として興った質実剛健の気風は、その後「武士道」に代表される、日本人の精神性の基調となりました。現在では、国際的史都鎌倉の中心的施設として、国の内外より年間を通して数多の参拝者が訪れます>(公式Webページより引用)

 

<現在の御本殿は文政11年(1828)、江戸幕府11代将軍徳川家斉公の造営による代表的な江戸建築で、若宮とともに国の重要文化財に指定されています。深い杜の緑と、鮮やかな御社殿の朱色が調和する境内には源頼朝公、実朝公をお祀りする白旗神社を始めとする境内社の他、静御前ゆかりの舞殿や樹齢千年余の大銀杏が、八百年の長い歴史を伝えています>

 


 

夕方で鎌倉を切り上げて、この旅行でメインとなる箱根に移動する。

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