食べ物に関しては比較的無頓着だったオヤジでしたが、そうめんにはかなりの拘りがあったらしく「オレは、揖保の糸しか食わん」などと申しておりました。申していただけでなく実際に揖保の糸専門だったようで、お中元などで各地の美味そうなそうめんが送られて来ても、やはり「オレは、揖保の糸しか食わん・・・」と揖保の糸以外の麺は、総て必然的に麺好きのワタクシメへと、お鉢が回って来たものでした。
まだ子供だった当時は「揖保の糸」と訊いても、なんの事やらサッパリで、これが兵庫県だと知ったのは大学時代に関西へ移住してからです。
<斑鳩寺(揖保郡太子町)の寺院日記『鵤庄引付』中、1418年(応永25年)9月15日の条に「サウメン」の記述がある。素麺に関する記述として、播磨国では最古のものであり、この頃から素麺の生産が行われていた。
1865年(慶応元年)、当時の龍野藩・林田藩・新宮藩の素麺屋仲間の内で「素麺屋仲間取締方申合文書」が交わされ、品質等について取り決めたが、廃藩置県によりそれまでの藩の保護を失った製麺業者は1872年(明治5年)に明神講が、1874年(明治7年)には開益社が設立している。>
出典Wikipedia
では、この「揖保」という地名の由来を探っていくと・・・
<『天日槍命(あめのひぼこのみこと)が渡来して、宇頭の川(古代揖保川下流域の称)底にやって来て、伊和大神(葦原志拳乎命・あしはらのしこおのみこと)に「あなたは国主だから、わたしの住む場所を捉供して欲しい」と頼んだ。
伊和大神は、国土を奪われる事を恐れ「海中ならよい」といって、上陸を許さなかった。天日槍は剣で海水を掻き回し、波浪の上に座り込んだ。
思わぬ大敵に伊和大神は恐れを抱き、天日槍より先に国を支配したいと考え、揖保川沿いを北上する。その途中の丘で食事をとったところ、慌てていたので口から飯粒がポロポロこぼれ落ちた。そのため、今でも丘の小石は飯粒の形をしており、丘の名も「粒丘(いいつぶのおか)と呼ぶようになった」となります。
●ポリネシア語による解釈
<揖保郡は、揖保川の下流域の地域です。
『播磨国風土記』は、揖保郡揖保里の「粒(いひぼ)山」の名は、葦原志挙乎(あしはらのしこを)命が、天日槍(あめのひぼこ)命と国の占有を争ってこの山に来て食事をした際、(飯)粒が落ちた事によると記しています。
『和名抄』は、揖保郡・郷を「伊比保」と訓じています。この「いひぼ」は、「イヒ(上)・ホ(秀)」で高い山の意とする説があります。しかし、これは次の川名からきた地名です。
<揖保川は兵庫県西部、鳥取県との県境付近の氷ノ山(ひょうのせん。1510m)に源を発する引原川が、宍粟郡一の宮町で三方川と合流して揖保川となり、龍野市付近から市川、夢前川と複合三角州を形成し、河口付近で林田川と合流すると共に中川を分流し、姫路市網干で播磨灘に注ぐ川です。この「いひぼ」は、マオリ語の
「イヒ・ポウ」、IHI-POU(ihi=split,separate;pou=pour out)、「(河口で支流を)分けて(海に)注ぐ(川)」の転訛と解します>
出典
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
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