1941年には、ナチスがフランスに進駐するとヴィシー政権に参加し、君主制を唱える機関紙『アクション・フランセーズ』に寄稿している。いくつかのラジオ局に参加して、テノール歌手クリスチャン・セルヴァとともに民謡番組「フランスの唄」を手懸けた。この放送は、地方の大衆音楽を普及するのに理想の媒体となった。
作曲家としての活躍の傍らで音楽学者としても活動し、伝統的なフランス民謡を採譜してディディエ社やウージェル社から出版した。1949年には恩師ヴァンサン・ダンディの、1950年には友人デオダ・ド・セヴラックの評伝を執筆している。
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