2005/12/21

ドヴォルザーク 交響曲第9番『新世界より』(第2楽章)


まずは主題らしき旋律が登場し、ファゴットによるソロが続く。次いでファゴットによる新たな主題が登場。この主題は、最も重要かつ実に美しくソリストの晴れ舞台だ。弦楽合奏による、第2主題の変奏へと移る。

 

オーボエ&クラリネットの掛け合いが絶妙だ。続いて、ヴァイオリンの合奏が続く。  何度聴いても聞き惚れてしまう美しい旋律である。聞き覚えのあるメロディが登場するが、これは第1楽章のテーマであることにお気づきだろうか?

 

しかもよく聴いてみると、第1楽章第1主題に続いて第2楽章の「遠き山に~」が出て、さらに形を変えた第1楽章の第3主題も、それに被さるように出てきているではないか。この辺りの処理は、実に巧妙だ。こうした細かいところに気付けば音楽がより一層楽しくなるし、気付かなければつまらないのである。

 

金管による第1楽章第1主題と第3主題の旋律の巧みな融合が、第2楽章のテーマに効果的に溶け込んでいる。味わい深いヴァイオリンの調べから、弦楽合奏へと移る辺りは郷愁を誘うようで、胸が締め付けられる思いがする。

 

この曲の隠し味となっている、黒人霊歌の下地が出来た経緯はこうだ。ドヴォルザークはアメリカで「ナショナル音楽院」を経営する金持ち婦人から招かれ、音楽院の院長となった。その学校に黒人の学生がいて、歌好きの彼はいつも鼻歌を口ずさんでいる。この青年の歌の上手さもさることながら、これまでに耳にした事がなく、しかしどことなく故郷ボヘミアの民謡に似た、この魅力溢れる旋律の虜となったドヴォルザークは、その学生を呼んで自らの前で繰り返し歌って欲しいと頼み込んだ。勿論、この歌好きの学生は得意げに、自慢の喉を披露した。

 

この時の体験が、ドヴォルザークの大きな財産となっていく。このような経緯のため、この曲(特に第2楽章)について「黒人霊歌を並べただけ」というトンデモな批判があるが、バカを言ってはいけない。黒人霊歌はあくまで参考にしただけで、実際にはドヴォルザークのオリジナルなのである。

 

全体から見ると、この第2楽章だけが浮いた感じは否めないとはいえ、実は第2楽章のみならず他の楽章でも巧みに、この黒人霊歌が使われている。第3楽章の中間部で展開する、鄙びた感じの美しいメロディなどもそうだ。このようにして、巧みに黒人霊歌をアレンジした独自の旋律を織り交ぜながら、夢から覚めた後は一気呵成に満艦飾のような第4楽章になだれ込むといった感じの、あのめまぐるしく変化していくような展開は実に目を瞠る。

 

音楽の三大要素は「リズム」、「メロディ」、「ハーモニー」と言われる。一流と言われる作曲家ともなれば、当然このバランスを巧みに操ってくるのはお手の物だが、一流とは言ってもそれぞれの嗜好や得意分野といったものもあるだろう。かの偉大なモーツァルトは

 

「メロディこそ音楽の真髄です」

 

と言われたそうだが、僭越ながらド素人のワタクシも諸手を挙げて同感だ。

 

音楽史に残る偉大なメロディメーカーといえば、このアマデウス様を筆頭にチャイコフスキー、メンデルスゾーン、シューベルトなど数え上げていけばそれこそキリがないが、その中でも「メロディの王様」と称されるのが誰あろう、チェコ(ボヘミア)の産んだ偉大な作曲家のドヴォルザークである。

 

ある毒舌評論家が

 

「まるで美味しいケーキを幾つも並べたような・・・」

 

と『新世界より』評したのは、実に上手い比喩である。第1楽章から、いきなり3つの魅力的な主題が次々に現われ、アッという間に惹き込まれてしまうのだ。

 

通常、4楽章編成の交響曲の場合、緩徐楽章に当てられる第2楽章か第3楽章のところは、ややつまらなくなってしまいがちだが、この曲の場合は第2楽章が非常に有名だ。イングリッシュホルンによる主部の主題は非常に有名であり、ドヴォルザークの死後にさまざまな歌詞をつけて「家路」、「遠き山に日は落ちて」などの愛唱歌に編曲された。

 

キャンプファイアーなどで、歌ったことがありませんか?

「遠き山に日は落ちて」(堀内敬三作詞)の歌詞。

遠き山に 日は落ちて 星は空を ちりばめぬ

きょうのわざを なし終えて 心軽く 安らえば

風は涼し この夕べ いざや 楽しき まどいせん まどいせん

 

やみに燃えし かがり火は 炎今は 鎮まりて

眠れ安く いこえよと さそうごとく 消えゆけば

安き御手に 守られて いざや 楽しき 夢を見ん 夢を見ん

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