2006/10/31

ベッリーニ オペラ『清教徒』act1

 


『清教徒』(せイタリア語: I Puritani)は、ヴィンチェンツォ・ベッリーニが作曲した最後のオペラ(全3幕)で、メロドランマ・セリオと銘打たれている。1835125日にパリのイタリア座(英語版、フランス語版)で初演された。本作は清教徒革命に巻き込まれた男女の愛を描く、歌手とっては大変な難曲で、『ノルマ』、『夢遊病の女』と並ぶベッリーニの代表作である。

 

作曲の背景

18333月にヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演されたオペラ『テンダのベアトリーチェ』が不評に終わり、失望したベッリーニは同年の秋に、念願だったパリへ移住する。そこで巻き返しを期して作曲されたのが『清教徒』で、1834年にパリのイタリア・オペラを原語で上演する歌劇場であるイタリア座からの依頼を受けて作曲されたオペラであった。

 

ベッリーニは、パリにやって来た当時フランス語が全く話せなかったばかりか、イタリア語も酷いシチリア訛りであった。だが、彼はフランス語を自在に操れる必要を感じていなかった。パリ滞在は新作オペラを華々しく成功させることだったからである。

 

ベッリーニはロッシーニの支援を受けてイタリア座と契約したが、イタリア座での収入はイタリアで受けていた収入よりずっと多く、イタリア座という歌劇団自体が素晴らしいこと、そしてパリに留まりたいからであると考えていた。当時のパリには林立する歌劇場群の隆盛で欧州全土から注目を集めていたが、全編をフランス語で歌い通し、バレエを盛り込んだ大作を主とするパリ・オペラ座とより庶民的な題材を扱い台詞を入れて筋を分かり易くしたオペラ=コミック座という二大歌劇場ではなく、イタリア座での新作発表を選んだベッリーニの意図が想像しやすい。

 

音楽的特徴

「信じて、哀れな人!」"Credeasi, misera"、第3幕からの抜粋。強調表示された音符(ハイC以上)は、テノールの運用レパートリーで最も厳しく要求されるものの1つであり、通常はファルセットまたは完全に移調して歌われる。

 

和声とオーケストレーションにおいて、『清教徒』はベッリーニの最も洗練されたオペラである。これがパリの聴衆のために書かれたことの直接の結果であることは疑いない。主題の回想が非常に多いと言う点も、同じ理由に帰することができるだろう。と言うのも、この手法は当時のフランス・オペラに共通する特徴だからである。

 

ベッリーニは、またゆったりとした時間のスケールを作り上げようとした。このことは拍をまたいだ遅い三連符が、これ見よがしに続く導入部にはっきりと見てとれる。この点において、ベッリーニはワーグナーとも接点を持っていたと言える。エルヴィーラの役はロマン主義的狂気の極致を示すもので、病的な状態と言うよりも、か弱い女性の、一部は抒情的で、一部はヴィルトゥオーソ的な変容として構想されている。このような女性像はドニゼッティの『ランメルモールのルチア』に反響を見出すことになるであろう。

 

ベッリーニは、ある時は独立した部分に分けられた古典的構成を取り入れ、またある時は〈規則に縛られない〉巨大な構築を思わせる構成をとっている。後者の例である『清教徒』においては、幾つかの場面区切れることなく展開されるのである。さらに、彼の見事な旋律は長い労苦の末に生み出された者であり、ドラマの感情内容をより良く声に託すためにベッリーニは和声とオーケストレーションを絶えず純化して、その贅肉の一切を削ぎ落しているのである。

2006/10/28

日本シリーズの難しさ  

 プロ野球・日本シリーズは41敗で日本ハムが中日を圧倒し、実に呆気なく終わった。

戦前の予想では「中日圧倒的有利」と言われていた。

「中日の投打における充実ぶりは抜きん出ている>

というのが、その根拠だったようだ。

中日には、一年通して散々いいようにあしらわれ続けたGの試合を観ていたワタクシも、中日の強さは誰よりも痛感していた一人だと言えた。また最後まで優勝を争った阪神も、中日には一年通じて殆どコテンパンにやられ続けたのである。

あのシーズン中の戦いぶりを見れば「中日有利」と言いたくなるのはヤマヤマではあるが、そうした評論家の予想に一石を投じたのが、シリーズ前に書いたワタクシの予想である。

参考までに、以下に再録してみよう。

<普段はGの試合しか観る事のないワタクシであり、今年の中日の強さと充実振りは嫌というほど頭に焼き付いているだけに、正直なところ中日が負けるイメージというのは、非常に想像が難しいところだ。ましてや、これまでシリーズには殆ど馴染みがないといってもいい日本ハムが相手となれば尚更だが、昨年のロッテの例もあるだけに、案外そう簡単には行かないかもしれない。
プレーオフ以外の、レギュラーシーズンでの試合は殆ど観る事のないパリーグの実力は、やはりよくわからないところがあるのだ。プレーオフ第一ステージで西武を破ったソフトバンクが、この日ハムの前にはまったくなす術もなく消え去った第二ステージの二試合を見る限りでも、ヒルマン監督の下で戦力がかなり充実して来ているように見えただけに、あながち「中日有利」とばかり決め付けられないかな? という気もして来ている>

以前からの読者ならご存知のはずだが、これまで何度も書いて来たワタクシの予想は、並み居るボンクラ評論家なんぞは問題にならないくらいに的中率の高い事はカネガネ有名だから、今回もボンクラ評論家の予想などは爪の先ほども信用するようなワタクシであろうハズはないのである。

そんなワタクシだけに、上に書いたような熱の籠もった熱戦を密かに期待していたのだったが、結果はご存知の通り中日はまったくといってよいほど、いいところのないままに敗れ去ってしまったのである。

ボンクラ評論家どもとは違い、開幕前に予想したように

(日本ハムが勝つ可能性も、満更捨てきれない・・)

と踏んでいたワタクシとはいえ、中日がここまで呆気なく敗れ去るとはまったく予想だにしていなかった、というのが本音だ。確かに、このシリーズを見た限りでは真の実力はともかくとして、球場のファンとSHINJYOを中心に、総ての選手が一体となって溌剌としていた若い日本ハムの勢いが素晴らしかったし、一方の中日の方は下馬評の高さがプレッシャーとなったか、或いは初戦の勝利で油断してしまったとしか思えないような、覇気のない2戦目以降の戦いぶりにも見えた。

が、実はもっと大きな原因は別のところにあって、昨年の阪神の例を見てもわかるように、それほど力の差はないと見られた千葉ロッテに対し、信じ難いような一方的な展開で敗れた事からも見て取れるように、やはりどう考えても「プレーオフを勝ち上がって来た勢いと自信」こそが、この彼我の差を生んでいるとしか思えないのである。

オレ流・オチアイ監督の号泣」という、千載一遇のチャンスを見逃したワタクシだけに、密かに日本一でのそのシーンを心待ちにしていたのが正直なところだったが、それに代わってこれまでは単に脳細胞が豊かではないニーちゃん  だとばかり思いこんでいた、あのノー天気なSHINJYOがあんなにも感激して号泣したのには、まったく驚きで言葉も出なかった。

2006/10/27

神代植物公園のバラ

神代植物公園は、都内唯一として開園した植物公園。東京都調布市にある園内には約4,800種類、10万本・株の植物が30ブロックに分かれて植えられ、梅や桜の名所としても知られる。ばら園は、2009年に世界バラ会連合優秀庭園賞(WFRS Award of Garden Excellence)を受賞した。春と秋のバラフェスタ、夜のライトアップやコンサートなどのイベントが催される。

 

武蔵野の面影が残る園内で、四季を通じて草木の姿や花の美しさを味わうことができます。この公園はもともと、東京の街路樹などを育てるための苗圃でした が、戦後、神代緑地として公開されたあと、昭和36年に名称も神代植物公園と改め、都内唯一の植物公園として開園されました。

 




吉祥寺の自宅から少し頑張れば自転車で気軽に行ける距離だけに、ワタクシにとっては絶好のサイクリングコースだ。由緒ある深大寺も隣接し、深大寺そばやそば饅頭も堪能できる。バラは春と秋の年2回楽しめるのも嬉しい。

2006/10/25

ヤマトタケルノミコトの羽曳野

某羽曳野住人のWebから引用

 <羽曳野には、白鳥伝説というものがあります。この白鳥伝説を市はがんがんアピールしているのですが、僕は羽曳野について調べるまで知りませんでした。  

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)という名前を、日本史などで聞いたことはないでしょうか? この日本武尊が、羽曳野に伝わる白鳥伝説の主人公であります。

日本武尊は景行天皇の皇子で、武勇の持ち主でした。父である天皇の命令によって、九州の熊襲(くまそ)や東国の蝦夷(えみし)を征服しましたが、東国からの帰りに能褒野(のぼの)(三重県亀山市)で力尽きてしまいました。その時に詠んだ歌が

『倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭うるわし』

というもので、結構有名らしいです。

日本武尊は能褒野で葬られましたが、大和に帰りたいという思いから白鳥に姿を変え飛び立ちました。途中、琴弾原(奈良県御所市)を経て、最後に舞い降りた地が旧市邑(ふるいちむら)(羽曳野市)だということが古事記、日本書紀に書き記されているそうです。その白鳥が、羽を曳くように飛び去った・・・という姿から「羽曳野」という名前がついたという事です。

ところで地図で羽曳野市の形を見てみると、羽のような形をしていると思いませんか? 僕は、今まで羽の形をしているから羽曳野だと思っていたのですが、こんな言い伝えがあったとは知りませんでした。それから古市駅の近くに、白鳥神社という神社があります。またそこから西へ行くと、白鳥陵古墳があります。

これは日本武尊伝承の陵といわれていて、三重県亀山市、奈良県御所市にもある御陵とともに『白鳥三陵』と呼ばれています。また、この三つの市で「日本武尊・白鳥伝説三市交流」という事で、歴史・文化を契機とした友好を図り、夢育むまちづくりのため幅広い分野で交流しようという事が行われているようです。

ポリネシア語による解釈
羽曳野市は大阪府南東部の市で、東部は二上(にじょう)山の北西斜面、西部は羽曳野丘陵、中央部は大和川の支流石川の河谷平野です。難波と飛鳥を結ぶ、竹内街道が東高野街道(国道170号線)と交わるところに、中心集落の古市があります。付近には応神陵、清寧陵、安閑陵、日本武尊陵と伝えられる巨大な前方後円墳が密集する、古市古墳群があります。

この「はびき」は、マオリ語の「パピ・キ」、PAPI-KI(papi=ooze,leak;ki=full,very)、「至る所から水が滲み出す(場所)」の転訛と解します。
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

2006/10/24

ドヴォルザーク 弦楽四重奏曲 第12番『アメリカ』(第4楽章)

 


鉄道マニアのドヴォルザークは、プラハのフランツ=ヨゼフという駅に殆ど毎日出かけ、列車の時刻表を全部覚えたり、機関士と話をしたりしていた。また弟子が機関車に乗った時には、どんな種類の列車に乗ったか、その機関車の名称や型式番号は何番だったかなどをしつこく聞き出したらしい。

 

ドヴォルザークは毎日同じ鉄道を利用しており、その列車が奏でる走行音を楽しんでいた。しかしある日、いつもと微妙に違う走行音が聞こえたため、ドヴォルザークが車掌にその旨を伝えたところ、車両から故障個所が見つかったという。彼が鉄道ファンであることと、音楽家としての鋭い聴力が列車事故を防いだのである。本当ならば、すごい話だ。

 

ドヴォルザークは、1892年から1895年アメリカのニューヨークに創設されたナショナル音楽院の院長として招かれたが、そこでの生活で悩んだことがあった。それは、近くに鉄道が走っていなかったからだった。しかしながら、彼はそこでの滞在の間、その代わりとして波止場に行って「船」を見ることで、自分の気持ちを満足させていたらしい。アメリカ時代に、故郷のチェコを思いホームシックになった話は有名だが、こんなところもその原因の一つだったか。

神橋(日光・鬼怒川温泉旅行)(12)

聖地日光の表玄関を飾るにふさわしい朱塗に映える美しい神橋は、昔は「山菅の蛇橋」などと呼ばれ日光二荒山神社の建造物で国の重要文化財に指定され、平成11年12月に世界遺産に登録されました。

 

 橋の長さは28メートル、巾7.4メートル、高さ(水面より)10.6メートルあり、高欄には親柱10本を建て、それぞれに擬宝珠が飾られ(乳の木)と橋板の裏は黒漆塗で、その他は朱に塗られています。

 


 奈良時代の末に、神秘的な伝承によって架けられたこの橋は神聖な橋として尊ばれ、寛永13年に現在のような神橋に造り替えられてから、もっぱら神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用され、一般の通行は下流に仮橋(日光橋)を架けて通行することとなりました。

 

 昭和57年、男体山頂鎮座1200年祭斎行に際し、昭和48年よりその奉賛を目的として、広く一般に公開され、平成9年より今回の大修理が行われました。山間の峡谷に用いられた「はね橋」の形式としては我国唯一の古橋であり、日本三大奇橋(山口県錦帯橋、山梨県猿橋)の1つに数えられています。

 

神橋の伝説

 奈良時代の末、下野の人沙門勝道は、その伯父・大中臣諸清たちと、かねて深く尊崇する霊峯二荒山(男体山)の登頂によって鎮護国家、人民利益のための大願をたてました。

 

 天平神護2年3月(766年)勝道上人一行は大谷川のほとりにたどりつき川を渡ろうとしましたが、岩をかんで流れる大谷川の激流のため渡る方法がなく、こまりはてました。上人はひざまづいて一心に祈念を凝らすと、川の北岸にひとりの神人が現われました。

 

その姿は夜叉のようで、身の丈一丈余、左手は腰にあんじ、右手に二匹の蛇をまき、上人に向って

「我は深砂大王である。汝を彼の岸に渡すべし」

といいながら手にもった蛇を放つと、赤と青二匹の蛇は、たちまち川の対岸とを結び、虹のように橋をつくり、背に山菅が生えたので、上人一行は早速これによって急流を渡ることができたといいます。

 

ふり返って見ると、神人も蛇橋もすでに消え失せてしまっていたので、上人は合掌して深砂大王の加護に感謝し、それ以来この橋を山菅の蛇橋と呼んだといいます。

 

神橋の特徴

(1) 視覚上の特徴

雄大な自然景観の中での、木太い部材を用いた構造美と、柔らかい円弧で構成された優雅な曲線による意匠美。一見、周囲環境の木々や清流の緑とは不均衡に思える漆塗の弁柄朱の赤との採り合わせであるが、朱色が引き締める色彩美。この二美が違和感なく融合して、間近に接した時の圧倒されるスケールの大きさの一方で、大谷川の渓谷美とマッチした繊細・優雅さを印象付ける。

 

(2) 構造上の特徴

橋桁を乳の木と称し、大材の乳の木を両岸の土中あるいは岩盤中に埋め込み、対岸より互いに斜め上向きに突出させて桔ね出し、さらにこの先端を石製橋脚で支持して(片持梁形式の桔木構造)、迫り出た中央部で、この両桔木へ短い橋桁を台持継により上方から載せ置き、台形状に略円弧を形成して骨組みを造り上げる構法。

 


現存する重文木造橋8基のうちでも、唯一の特異構造。

従来の数層の桔木を持ち送りに迫り出すはね橋本来の形式(橋脚を建て難い山間の渓谷に用いる工法)から、大材1本による乳の木方式に改良し、スリム化した弱点を橋脚を付加することで補強する構造で、はね橋と桁橋を組み合わせた当時の先端的技術を取り入れた新工法。桃山期よりの城郭建築の発展に伴なう、土木技術並びに橋梁技術の発達が背景にある。

 

この工法で、材木の総体積・重量の軽減、並びに組立の簡便・危険度の低減が図られた一方、洪水による橋脚の流失リスクは増すことになる。