この世界遺産のミニチュアたちの画像をしっかりとデジカメに収めたところで初日の予定は終了となり、再びバスで鬼怒川温泉駅へと舞い戻った。食事まではまだ時間があったため、暮れなずむ温泉街をブラブラと歩き、翌日の日光旅行に備えてデジカメのSDカードを入れ替えようとして、信じがたい大失態を犯してしまった。どういうわけか、のSDカードを取り出すつもりが「初期化」をしてしまったのである。
しまった!!!」
と叫んだ時にはすでに遅し。半日掛かりで苦労して撮影した世界遺産のミニチュアたちは、すべて消えてしまった。
勿論、閉演時間間近までいたから、今から取り直しに行くわけにもいかず、さりとて翌日は日光のスケジュールがギチギチだっただけに、涙を呑んで諦めるしかなかった。
しばらく気分が落ち込んでいたものの、宿に帰るとご馳走が出てくる。今回はちょっぴり張りこんで、伊勢海老などの付いた舟盛りを料理に追加予約していただけに、テーブル狭しと並んだ料理は実に豪華だ。露天風呂も内風呂も、24時間いつでも好きな時に入れる。
≪鬼怒川温泉は、栃木県日光市(旧下野国)にある温泉。関東を代表する箱根と並ぶ東京の奥座敷と呼ばれ、東京の浅草または新宿から特急列車で約2時間である。
鬼怒川温泉駅の南側から、鬼怒川公園駅までの間、鬼怒川沿いの両岸、滝地区と藤原地区に数多くの大型ホテル、旅館の建物が連なる。歓楽街温泉としても栄えた場所であり、それに伴う飲み屋なども数多く存在していたらしいが、実際に営業している店舗は多くない。これは温泉街の多くに当てはまることだが、1980年代のバブル期における温泉施設の大型化に伴い、土産品や歓楽街の機能をも温泉ホテルの中に組み込むことによって、営業利益を上積みしようとする動きが強かったことによるものである。
鬼怒川温泉駅前は旅館業者が兼営するみやげ物店、食堂、売店が散在する。温泉街の外れには、ロープウェイが存在する。ロープウェイの山頂側の駅近くに温泉神社が存在する。
古くは滝温泉という名前で、鬼怒川の西岸にのみ温泉があった。発見は1752年とされる。日光の寺社領であったことから、日光詣帰りの諸大名や僧侶達のみが利用可能な温泉であった。
明治時代になって、滝温泉が一般にも開放されるとともに、明治2年には東岸にも藤原温泉が発見される。その後、上流に水力発電所ができて鬼怒川の水位が下がるとともに、川底から新源泉が次々と発見され、次第に温泉として発展していった。
1927年(昭和2年)に、滝温泉と藤原温泉を合わせて鬼怒川温泉と呼ぶようになり、その名称は今日までいたっている。戦後は特急「きぬ」の運行などもあり、東京から多くの観光客が押し寄せ、大型温泉地として、また歓楽街温泉地としての発展を見せた。
ただし、その後は不振が続いた。全国の大規模温泉旅館は不振が続き、バブル崩壊後は温泉街全体が経営的に一層苦しくなっている中、鬼怒川温泉も例外ではない。むしろ熱海温泉や別府温泉と並んで、不振の代表格とされたことすらあった。
さらに、同じ東京近郊立地の温泉地である箱根温泉に比べると、アクセスがやや不利で、集客にハンディがあった。団体客相手を中心にした設備のままでの経営や硬直的で割高な料金設定(ホテル・民宿で、ほぼすべて同じ料金に設定していた時期もある)を後々まで続けていたことなども、不振を促進させた理由であることは否めない。
加えて、それまで鬼怒川温泉の旅館ホテルに経営支援を行ってきた、栃木県の地方銀行である足利銀行の経営破綻の影響で、大多数の旅館で資金繰りが悪化した。産業再生機構の支援対象となっている旅館業者は、2005年4月末までで5社(同じ日光国立公園内では他に3社)あるほか、ここ2年間で廃業したものも2社(館)ある。
その後、明るい話題として、2006年には、新宿駅~池袋駅~大宮駅~鬼怒川温泉駅間で「きぬがわ」、「スペーシアきぬがわ」が直通運転を開始した(一方では、同時に料金不要の快速列車の大規模削減が実施されたので、全体的には利便性は大幅に損なわれている面もある)が、将来のリピーターとなる可能性のある一人旅の人や若年層の観光促進の問題などを勘案すると、先行きはまだまだ不透明なのが現状である≫
ビールと酒を追加して、いい気分になったところで温泉を堪能してたころには、すっかり気分も回復していた。
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