戦国時代に生まれ、長い戦乱の世を生き抜いて天下統一を果たした徳川家康公は慶長8(1603)年、征夷大将軍-せいいたいしょうぐん-に任ぜられて江戸に徳川幕府を開く。秀忠公に2代将軍の座を譲ってからも大御所として天下に睨みをきかし、自分の死後について重要な遺言を残した。
「遺体は久能山 (静岡)におさめ、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神としてまつること。そして、八州の鎮守となろう」
元和2(1616)年4月17日、家康公は駿府
(静岡)で75歳の生涯を閉じる。翌年、日光に社殿が造営され、朝廷から東照大権現の神号が贈られた。遺言どおり、神としてまつられたのである。
家康公が目指した「八州の鎮守」とは、現代風にいえば「日本全土の平和の守り神」である。日光は江戸のほぼ真北にあたる。家康公は、不動の北極星の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたのである。
家康公が望んだ「小さな堂」は、やがて家康公を敬愛する3代将軍家光公によって、いま見るような絢爛豪華な「平和のシンボル」に生まれ変わる。現存する建物のほとんどは、「寛永の大造替」で建て替えられたものだ。造替の総奉行・秋元但馬守が幕府に提出した収支報告書『日光山東照大権現様御造営御目録』(通称『御造営帳』)によると、総工費は金56万8000両、銀100貫匁、米1000石。今の400億円に相当する。使った材木が14万本、工期は1年5か月、延ベ454万人が携わった。35棟を建て替え・新築した大工事は寛永13(1636)年に完成して今に至る。
境内には、世界遺産に登録された22件の国宝・重要文化財が、杉木立の中にひっそりとたたずんでいます。境内に林立する315基の灯籠も印象的です。
先祖である家康公の廟所(東照宮)を凌いではならないという家光公の遺命によって、彩色や彫刻は、控え目に造られましたが、かえってそれが重厚で落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
入り口の「仁王門」にはじまり、家光公墓所の入り口に当たる「皇嘉門」(こうかもん)まで、意匠の異なる大小6つの門で、境内が立体的に仕切られており、門をくぐるたびに景色が転換して、あたかも天上界に昇っていくような印象を受けます。
仁王門(重要文化財、世界遺産)
三代将軍徳川家光公が眠る廟所「奥の院」へは、石段を登るごとに次々と現れる特徴ある6つの門をたどり導かれます。木立の中、参拝の足を進めるごとに変わる景色はあたかも人間界から天上界へと登っていくような印象を受けます。初めにくぐる、この「仁王門」の左右には「金剛力士像」がまつられています。
二天門(重要文化財、世界遺産)
仁王門を潜って左に折れると、大きな二天門を仰ぎ見ることが出来ます。重要文化財に指定され、桜門下層正面左右に、持国天、広目天の二天を安置していることから二天門と呼ばれています。背面には風神・雷神が配置された均整の取れた美しいこの門は、上部分と下部分の彩色が著しく異なっており、日光の建造物では他に例がありません。
夜叉門(重要文化財、世界遺産)
二天門を潜り、続く石段を左手に曲がり見下ろすと、後にしてきた灯籠や水屋が見渡せます。ここからの眺めは、天上界からの眺めにたとえられています。
いよいよ聖域へと近づいてきました。次は霊廟への最初の入り口となる夜叉門です。切り妻造りで、正背面に軒唐破風を付けた低平な落ち着いた造りながら、鮮やかな彩色が目を引く華やかな門です。正面、背面の左右柵内に「毘陀羅(びだら)」「阿跋摩羅(あばつまら)」「ケン陀羅(けんだら)」「烏摩勒伽(うまろきゃ)」の「四夜叉」を納め、霊廟の鎮護に当たっています。欄間、扉の羽目板部分、壁面などに流麗な牡丹唐草彫刻が施されていることから、牡丹門とも呼ばれています。
紫雲閣は、約1200年の歴史を有する輪王寺布教活動・仏教文化の向上を目的として明治時代に創建された施設です。
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