2006/10/15


明治22年「市制町村制」により、喜多見・大蔵・宇奈根・岡本・鎌田の5ヶ村が合併して新村を成立させた時、故事に基づいて「砧村」とした。昭和11年、砧村が世田谷区に吸収され「」は消滅。同30年飛地整理により、世田谷通り以北の大蔵町・鎌田町・喜多見村飛地・宇奈根飛地・祖師谷町1丁目飛地・同2丁目飛地を合わせた町域を、かつての砧村の砧を復活させて砧町とし、同44年新住居表示により周辺の一部を桜丘・成城・祖師谷・千歳台に譲り、世田谷5丁目・大蔵町のごく一部をあわせた町域を現行の「砧」とした。

<砧という名称は比較的新しく、明治22年(1889)に岡本村、鎌田村、大蔵村、宇奈根村、喜多見村が合併した時に初めて村名として誕生した。「砧」とは、布を小槌で打って柔らかくする時に下に敷く台の事。平安時代以前に、この地域が絹布の生産が盛んであった事から、地元の有識者が当時の北多摩郡長(当時は神奈川県)に内申したと思われる。詳細は不明。

昭和11年(1934)、砧村が東京市に編入された時に「砧」の名は消滅したが、昭和30年(1955)に鎌田町、大蔵町、久地町、諏訪町などを飛地整理として町域整理した際に、大蔵町の北部などを砧町とした。その後、町域変更を重ね昭和44年(1969)に住居表示により「砧」となった。

<この地名は、明治22年にこの村が編成された時に付けられたものです。最近に付けた地名であるはずなのに、その時の資料が残っていないらしいのです。そこで大まかに推測してあるので、それを紹介します。

この辺りの多摩川沿岸地域は奈良・平安時代の頃、租庸調の制度により布を政府に納めていました。よってこの辺りは布の生産地と知られ、後世(地名をつけた時)この砧のあたりも布の生産が盛んであっただろうと推測し、砧と地名を付けたと思われます。

砧とは木槌で布を打って柔らかくしたり、布のつやを出す時に用いる木または石の台。「きぬいた(衣板)」の音変化、またはそれを打つ事や、その音を指したりもするそうです。ほんとにズバリ、万葉集の「多摩川に晒す手作りさらさらになんぞこの子のここだ愛しき」の世界です>(多摩川に晒す布がさらさらと鳴るように、どうしてこの人がさらにさらに愛しいのだろう)

ポリネシア語による解釈
もと多摩郡砧村には、北の千歳村から仙川が、西から野川が流れ込み、合流していました。この「きぬた」は、マオリ語の「キノ・ウタ」、KINO-UTA(kino=bad,ugly;uta=the land,put persons or goods on board a canoe)、「(浸食されて)醜い船着き場」(「キノ」と「ウタ」の語頭の「ウ」が連結して「キノウ」から「キヌ」となつた)『砧打て我に聞かせよ坊が妻 芭蕉』の転訛と解します。
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

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