聖地日光の表玄関を飾るにふさわしい朱塗に映える美しい神橋は、昔は「山菅の蛇橋」などと呼ばれ日光二荒山神社の建造物で国の重要文化財に指定され、平成11年12月に世界遺産に登録されました。
橋の長さは28メートル、巾7.4メートル、高さ(水面より)10.6メートルあり、高欄には親柱10本を建て、それぞれに擬宝珠が飾られ(乳の木)と橋板の裏は黒漆塗で、その他は朱に塗られています。
奈良時代の末に、神秘的な伝承によって架けられたこの橋は神聖な橋として尊ばれ、寛永13年に現在のような神橋に造り替えられてから、もっぱら神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用され、一般の通行は下流に仮橋(日光橋)を架けて通行することとなりました。
昭和57年、男体山頂鎮座1200年祭斎行に際し、昭和48年よりその奉賛を目的として、広く一般に公開され、平成9年より今回の大修理が行われました。山間の峡谷に用いられた「はね橋」の形式としては我国唯一の古橋であり、日本三大奇橋(山口県錦帯橋、山梨県猿橋)の1つに数えられています。
神橋の伝説
奈良時代の末、下野の人沙門勝道は、その伯父・大中臣諸清たちと、かねて深く尊崇する霊峯二荒山(男体山)の登頂によって鎮護国家、人民利益のための大願をたてました。
天平神護2年3月(766年)勝道上人一行は大谷川のほとりにたどりつき川を渡ろうとしましたが、岩をかんで流れる大谷川の激流のため渡る方法がなく、こまりはてました。上人はひざまづいて一心に祈念を凝らすと、川の北岸にひとりの神人が現われました。
その姿は夜叉のようで、身の丈一丈余、左手は腰にあんじ、右手に二匹の蛇をまき、上人に向って
「我は深砂大王である。汝を彼の岸に渡すべし」
といいながら手にもった蛇を放つと、赤と青二匹の蛇は、たちまち川の対岸とを結び、虹のように橋をつくり、背に山菅が生えたので、上人一行は早速これによって急流を渡ることができたといいます。
ふり返って見ると、神人も蛇橋もすでに消え失せてしまっていたので、上人は合掌して深砂大王の加護に感謝し、それ以来この橋を山菅の蛇橋と呼んだといいます。
神橋の特徴
(1)
視覚上の特徴
雄大な自然景観の中での、木太い部材を用いた構造美と、柔らかい円弧で構成された優雅な曲線による意匠美。一見、周囲環境の木々や清流の緑とは不均衡に思える漆塗の弁柄朱の赤との採り合わせであるが、朱色が引き締める色彩美。この二美が違和感なく融合して、間近に接した時の圧倒されるスケールの大きさの一方で、大谷川の渓谷美とマッチした繊細・優雅さを印象付ける。
(2)
構造上の特徴
橋桁を乳の木と称し、大材の乳の木を両岸の土中あるいは岩盤中に埋め込み、対岸より互いに斜め上向きに突出させて桔ね出し、さらにこの先端を石製橋脚で支持して(片持梁形式の桔木構造)、迫り出た中央部で、この両桔木へ短い橋桁を台持継により上方から載せ置き、台形状に略円弧を形成して骨組みを造り上げる構法。
現存する重文木造橋8基のうちでも、唯一の特異構造。
従来の数層の桔木を持ち送りに迫り出すはね橋本来の形式(橋脚を建て難い山間の渓谷に用いる工法)から、大材1本による乳の木方式に改良し、スリム化した弱点を橋脚を付加することで補強する構造で、はね橋と桁橋を組み合わせた当時の先端的技術を取り入れた新工法。桃山期よりの城郭建築の発展に伴なう、土木技術並びに橋梁技術の発達が背景にある。
この工法で、材木の総体積・重量の軽減、並びに組立の簡便・危険度の低減が図られた一方、洪水による橋脚の流失リスクは増すことになる。
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