神道の由来と教義
神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念である。このためキリスト教、仏教のような開祖が存在せず、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけて、その原型が形成されたと考えられている。
「神道」という名称は「かんながらの道(神道)」と言う意味である。チャイナの『易経』や『晋書』の中にみえる神道は「神(あや)しき道」と言う意味であり、これは日本の神道観念とは性質が異なる別個のものである。同様のケースに、卑弥呼の時代の宗教感に対し「鬼道」という表現がなされるが、これは当時のチャイナにおける鬼道が異国の諸宗教に対して用いられていたことからも、日本での呼称とは全くの別物であることが分かる。
日本における「神道」という言葉の初見は『日本書紀』の用明天皇紀にある「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」であるが、このように外来の宗教である仏教と対になる、日本固有の信仰を指したものだった。解釈は多様であり、仏教や儒教に対して日本独自の宗教を神道とする説、稲作の様な自然の理法に従う営みを指して神道とする説などがある。
明治20年代(19世紀末)になると、西欧近代的な宗教概念が日本でも輸入され、宗教としての「神道」の語も定着し始め、同30年代(20世紀初)には宗教学が本格的に導入され、学問上でも「神道」の語が確立した。元々、神道にはイエス・キリストや釈迦のようなカリスマ的創唱者が存在しなかった。政権による土着の民俗信仰との支配的な祭政一致が行われた神道が、教義を言語で統一的に定着させなかったのは、古代より「神ながら 事挙げせぬ国」だったからであるとも言われている。そのため、外来諸教と融合しやすい性格を有することになったともいう。神道のような土着の民俗信仰と宗派宗教の併存例は世界各地でみられるものであるが、その多様性は特異なものである。
実際には、仏教公伝の当初から、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で抗争もあった。中世には、伊勢神道を始め吉田神道などの諸派が反本地垂迹説など、複雑な教理の大系をつくりあげてゆく。近世後期には、平田篤胤がキリスト教の最後の審判の観念の影響を受けた幽明審判思想を唱えたり、その門人等が天之御中主神を創造神とする単一神教的な観念を展開するなど、近代に連なる教理の展開を遂げた。また、近世以降の儒家神道も勢力はさほどではなかったものの、そこで主張された名分論は各神道説に影響を与え、尊王攘夷思想を広めるとともに、討幕の国民的原理ともなっていった。
近代には神道事務局祭神論争という熾烈な教理闘争もあったが、結局は、政府も神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したため、大日本帝国憲法によって信教の自由が認められた。もっとも、それには欧米列強に対して、日本が近代国家であることを明らかにしなければならない、という事情もあった。
神道における「神」
神道は多神教だが、祖霊崇拝性が強い。1881年の神道事務局祭神論争における明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利の後、天照大神が最高の神格を得たが、敗北した出雲派的なものが未だに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い。気象、地理地形等の自然現象に始まり、あらゆる事象に「神」の存在を認める。いわゆる「八百万の神々」である。アイヌの信仰にも共通点があり、アイヌ語の「カムイ」と「神(かみ)」という語の関係も深いと考えられている。また、生前業績があった人物を、没後神社を建てて神として祀る風習なども認められる(人神)。
自然を感じ取り、そのもののままでは厳しい自然の中で、人間として文化的な生活を営むのにふさわしい環境と状態を、自然との調和に配慮しながらバランスを取り調節して行き、人民生活を見回って生活する為の知恵や知識のヒントを与えたり、少し手伝ってあげたり、体や物を借りた時や何かやって貰った時などには少しお礼をしたり。それが、日本の「神(かみ)」がやっていた仕事の一つである。日本人にとって「神」は、とても身近な存在であった。日本の神は地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」であるが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る」性格も持っている(荒魂・和魂)。このように神は自然神から人格神へ、精霊的な神から理性的神へ、恐ろしい神から貴い神へ、進化発展があったと捉えることが出来る。
人間も死後神になるという考え方があり、社会的に突出した人物や、地域社会に貢献した人物、国民や国のために働いた人物、国家に反逆し戦乱を起こした人物、不遇な晩年を過ごし死後怨霊として祟りをなした人物なども「神」として神社に祭られ、多くの人々の崇敬を集めることがある。
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