執筆姿勢
ヘロドトスが調査・探求して記した『歴史』は、当事者や関係者がまだ存命中の出来事についての記録であった。そのための探求の方法は現代の歴史研究とは異なり、史料を確認して情報を収集するよりも、現地を回り関係者に聴取し、また自ら経験することが主となった。ヘロドトスは自らの目で確認することに努めたが、不足する情報は伝聞や証言によって補った。その中には、ヘロドトス自身が疑わしいと考える情報も多々あったが、彼は信憑性の程度に拘らずそれを『歴史』に掲載している。このような執筆姿勢は、以下のような記述からも明らかである。
この王についての(エジプトの)祭司の話はなお続き、右の事件の後ランプシニトスは、ギリシア人がハデス(冥界)の在るところと考えている地下へ生きながら下ったということで、ここでデメテルと骰子を争い、互いに勝敗のあった後、女神から黄金の手巾を土産に貰い、再び地上へ帰ったという。
このランプシニトスの下界降りが起縁となって、彼が地上へ帰ってからエジプトでは祭を催すようになったという。(中略)このようなエジプト人の話は、そのようなことが信じられる人はそのまま受け入れればよかろう。本書を通じて私のとっている建前は、それぞれの人の語るところを私の聞いたままに記すことにあるのである。
—ヘロドトス、『歴史』巻2§122-123、松平訳。
一方で、この態度はヘロドトスの著作中において徹底はしておらず、採録の基準は曖昧であったし、神々と人間との関わりのような問題についても、彼がはっきりと首尾一貫した哲学的姿勢を持っていたわけではない。ヘロドトスは英雄時代の歴史に立ち入ることはなく、しばしば触れる神話的伝承についても懐疑的な姿勢を取り、神々がかつて人間と交わったという説話や神の出現と言った出来事を事実として承認することはしなかった。だが、この姿勢は神話を明確に拒絶するほど徹底したものでもなかった。ヘロドトスはまた、こうした神話的な説話に対して時折風刺を加えてもいる。
テッサリアの住民自身のいうところでは、ペネイオスの流れているかの峡谷は、神ポセイドンの作られたものであるというが、もっともな言い分である。というのは地震を起こすのがポセイドンで、地震による亀裂をこの神の仕業であると信ずる者ならば、かの峡谷を見れば当然ポセイドンが作られたものであるというはずで、私の見るところ、かの山間の亀裂は地震の結果生じた物に相違ないのである。
—ヘロドトス、『歴史』巻7§129、松平訳
また、ローマ時代の歴史家プルタルコスやエウセビオスによれば、ヘロドトスは『歴史』の内容を各地で口演していたという。このヘロドトスが聴衆に向けて語り聞かせていたという情報は事実であると考えられ、このことが聴衆を楽しませるための様々な説話・余談の挿入、本筋からの脱線という『歴史』の特徴を形作ったとも考えられる。
評価
「歴史」の成立
ヘロドトスは、一般的に歴史家に分類される。しかし、ヘロドトス自身には当時、現代的な意味での「歴史」を書くという明確な意識はなく、自らを歴史家とはみなしていなかったと考えられる。なぜならば彼が生きた時代には、未だ歴史というジャンルが成立していなかったためである。ヘロドトスが用いた調査・探求(Ἱστορίαι
ヒストリエー)というギリシア語の単語は、英語の history(歴史)やフランス語の histoire(歴史)の語源となったことは広く知られているが、『歴史』本文においてヘロドトスがこの historia という単語を用いる時、基本的には「調査」もしくはその方法としての「尋問」という意味で使用されている。つまり、ヘロドトス自身の意識としては『歴史』は現代の概念でいう「歴史」を書いたものではなく、「自身による研究調査結果」を語るものであった。柿沼重剛の指摘によれば、ヘロドトス以前には historia が意味する「探求」とは神話や系譜、地誌に関することであったが、ヘロドトスはこれを「人間界の出来事」にまで広げた点が特筆されるという。
ヘロドトスの没後100年あまりの間に、ギリシアでは詩とは異なる「歴史」というジャンルが明確に確立された。後代の人々が歴史と言うジャンルを認識するようになると、ヘロドトスの仕事はまさにそれを開拓したものであると位置づけられるようになった。早くも前4世紀に生きたアリストテレスはヘロドトスを歴史家として分類し、以下のような有名な言葉を残している。
歴史家と詩人は、韻文で語るか否かという点に差異があるのではなくて-事実、ヘロドトスの作品は韻文にすることができるが、しかし韻律の有無にかかわらず、歴史であることにいささかの代わりもない-、歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語るという点に差異があるからである。
—アリストテレス、『詩学』第9章、松本・岡訳。
こうして歴史家として称えられたヘロドトスの『歴史』は名著の誉れ高く、失われることなく、また名声を損なうことなく現代まで伝えられた古典古代の「歴史書」の中では最古のものである。
歴史の父
ヘロドトスは、歴史叙述の成立過程、史学史において必ず言及される人物であり、彼の作品『歴史』において歴史学と呼びうるものの最も早い例を見る事ができるとも言われる。
このことから、ヘロドトスはしばしば「歴史の父(pater historiae)」と呼ばれる。彼をこう呼んだ最初の人物は、古代ローマの政治家・哲学者であるキケロである。キケロは著作の『法律について』の一節でヘロドトスをこのように呼んでいるが、それがなぜなのかについて理由を説明していない。歴史学者大戸千之は、それを以下のように説明している。
ヘロドトスは著作において、執筆者とテーマ(ペルシア戦争の調査研究)を明示し、そしてその調査研究手法として「自らできる限り調査する」「情報を突き合わせ吟味・検討する」「調査結果を正確に報告し、直接的な情報と間接的な情報の弁別、情報に対する評価、自分が信じる情報と信頼はしないが重要な情報の区別を行う」といった姿勢を示した。これは後の歴史研究の基本に通じる姿勢であると言えるのである。
出典 Wikipedia
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