ヒッタイト(英:Hittites)は、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語を話し、紀元前15世紀頃アナトリア半島に王国を築いた民族、またはこの民族が建国したヒッタイト帝国(王国とも)を指す。なお、民族としてのヒッタイトは、ヒッタイト人と表記されることもある。他の民族が青銅器しか作れなかった時代に、高度な製鉄技術によりメソポタミアを征服した。最初の鉄器文化を築いたとされる。首都ハットゥシャ(現在のトルコのボアズキョイ遺跡)の発掘が進められている。
「ヒッタイト」は「ハッティ(英: Hatti)」の英語名で、旧約聖書のヘテ人(英語版)(英: Hitti、ヘト人とも)を元にして、イギリス人のアッシリア学者A.H.セイスが命名した。エラム人の自称ハタミ(Hatami、Haltami)に近い。
ヒッタイト人(Hittites)は、クルガン仮説による黒海を渡って来た北方系民族説と、近年提唱されているアナトリア仮説による、このアナトリア地域を故郷として広がって行ったという2つの説が提唱されているが、決着していない。近年、カマン・カレホユック遺跡(トルコ共和国クルシェヒル県クルシェヒル)にて鉄滓が発見され、ヒッタイト以前の紀元前18世紀頃(アッシリア商人の植民都市がアナトリア半島一帯に展開した時代)に鉄があったことが明らかにされた。その他にも他国に青銅を輸出、或いは輸入していたと見られる大量の積荷が海底から発見された。
ヒッタイト古王国
紀元前1680年頃、クズルウルマック(「赤い河」の意)周辺にヒッタイト古王国を建国し、後にメソポタミアなどを征服した。なお、ヒッタイト王の称号は「ラバルナ」であるが、これは古王国の初代王であるラバルナ1世、また、ラバルナの名を継承したハットゥシリ1世の個人名に由来し、後にヒッタイトの君主号として定着したものである。ヒッタイト王妃の称号はタワナアンナであるが、これも初代の王妃であるタワナアンナの名を継承したといわれている。
紀元前1595年頃、ムルシリ1世率いるヒッタイト古王国が、サムス・ディタナ率いる古バビロニアを滅ぼし、メソポタミアにカッシート王朝が成立。
ヒッタイト中王国
紀元前1500年頃、ヒッタイト中王国の成立。タフルワイリやアルワムナによる王位簒奪が相次ぐ。70年間ほど記録が少ない時代が続いた。
ヒッタイト新王国
紀元前1430年頃、ヒッタイト新王国の成立。紀元前1330年頃、シュッピルリウマ1世はミタンニを制圧する。この時、前線に出たのは王の息子達(テレピヌとピヤシリ)であった。 紀元前1285年頃、古代エジプトとシリアのカデシュで衝突。ラムセス2世のエジプトを撃退する。ラムセス2世は、勝利の記録を戦いの様子と共にルクソールなどの神殿に刻んでいるが、実際にはシリアはヒッタイトが支配を続けた(カデシュの戦い)。エジプトのラムセス王の寺院の壁に、3人乗りの戦車でラムセス2世と戦うヒッタイト軍(ムワタリの軍)のレリーフが描かれている。この際に、世界最古の講和条約が結ばれた。ハットゥシリ3世の王妃プドゥヘパ(英 Puduhepa)作とされる宗教詩は、現在発見されている最古の女性の文芸作である。ヒッタイトの宗教は、強くフルリ人の宗教の影響を受けていることが分かっている。フリ文化の色彩強まる。
紀元前1190年頃、通説では民族分類が不明の地中海諸地域の諸種族混成集団と見られる「海の民」によって滅ぼされたとされているが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになった(前1200年のカタストロフ)。
滅亡後
ヒッタイト新王国が滅びたあと、南東アナトリアに移動し紀元前8世紀頃まで、シロ・ヒッタイト国家群(シリア・ヒッタイト)と呼ばれる都市国家群として活動した(紀元前1180年-紀元前700年頃)。ただし、この都市国家群の住民は、かなりの程度フルリ人と同化していたと考えられている。
※Wikipedia引用
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