平安時代以前より出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる。鎌倉時代には伊勢神宮の神官による学問的研究が始まり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った。そうした伊勢派の努力は、やっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって、知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。
一方で、本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い、国学の主流を形成していった。これら神道や国学の目覚めが、欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派の果たしたことは、それに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。
神道史の本格的な研究は、宮地直一によって体系化された。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している。神道の成立期については、諸説出されている。主な説として、次の四説があげられている。
・第一説は「7世紀後半・8世紀、律令祭祀制」。天武・持統天皇朝説。この説は、大方の了承を得られる妥当な学説と考える。
・第二説は「8・9世紀、平安時代初期説」、提唱者は高取正男。
・第三説は「11・12世紀、院政期成立説」、提唱者は井上寛司。
・第四説は「15世紀、吉田神道成立期説」、提唱者は黒田俊雄。
戦前の教科書の神と神代
戦前は、学校の教科書などに「神」についての認識の仕方の説明が載っていた。尋常小学校の歴史や修身の教科書などには、少年少女向けの歴史物語として神話の説明が記載されている。神話の世界はとても人間的な世界で、そこには「神」と「人」を隔てる断絶は存在しない。神もまた人間のように仕事をし、生活をしている。昭和8年の『少年國史物語』では、「神代の物語」の項目に「どこの國でも、大昔の事ははつきりとは分らないものだが」と前置きをして、神代の事から始まる日本の歴史について、以下の説明がある。
「神代といふのは、我が國の大昔に相當の身分であつた方たちを後の世の人が尊敬して、すべて神として崇めてゐるところから、その方たちの時代を指してさう呼んでゐるのである」
現代の神道
神道に属する神々を祭神とする社を神社といい、全国の神社の大部分は神社本庁が統括している。なお、神社本庁は「庁」と称しているが、行政機関ではなく宗教法人の一つである。
皇室と神道
宮中祭祀に見られるように、皇室と神道は歴史的事実として密接な関わりを持つことが上げられる。また、神道の信仰の対象としての天皇と、その祖先神の存在がある。多くの日本国民が、仏教と神道の習慣と信仰を両立させているように、皇室も神道の祭祀と仏教の行事を共に行っていた。皇室の神道色が強まったのは、朝廷の復権を志向して光格天皇が行った宮中祭祀の復活によってであり、それまではむしろ仏教色が強かった。明治天皇の代で行われた神仏分離や神道国教化に伴い、仏教と皇室の直接的な関係は薄れたが、皇室菩提寺であった泉涌寺と宮内省の特別な関係は日本国憲法施行時まで続いた。
八百万の神
「自然のもの全てには神が宿っている」ことが八百万の神の考え方であり、欧米の辞書には「Shinto」として紹介されている。日本では古くから、山の神様、田んぼの神様、トイレの神様(厠神 かわやがみ)、台所の神様など、米粒の中にも神様がいると考えられてきた。自然に存在するものを崇拝する気持ちが、神が宿っていると考えることから「八百万の神」と言われるようになったと考えられる。八百万とは無限に近い神がいることを表しており、多神教としてはありふれた考え方である。またこういった性格から、特定能力が著しく秀でた、もしくは特定分野で認められた人物への敬称として「神」が使われることがある。
神と霊
神道において、特に有力な人物や恨みを残して亡くなった人物を『神』として祀り、祟りを避けようとした例は数多い。中でも菅原道真を祀る天満宮は亡くなった人間を神として扱う顕著な例である。これに対して近代に興った靖国神社は、国家のために戦死した不特定多数を神として祀っており、特定単数を神として祀る先述の例と一線を画している。これらのことから、神社から慰霊碑、(神仏習合における)墓に至るまで、規模は違えど本質的に同じものであり、『神』(祀れば恩恵をもたらし、ないがしろにすれば祟るもの)と『霊』(人間が死んだ後に残るとされる霊魂)とは明確に区別されていないといえる。
※Wikipedia引用
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