哲学的解釈
ゼノンの議論は、プラトンが伝えるように当時から哲学者たちに注目されて来た。いかなる価値があると見るかは別として、歴史上そうそうたる顔ぶれによって採り上げられ、論じてられて来た。どの議論を取り上げるか、またそれが何を論じていると見るかなど解釈の違い、関心の持ち方はさまざまではあったが、特に運動のパラドックスは、多様な論議が古代から現在まで続いている。
アリストテレス
アリストテレスは著書でゼノンの議論をいくつか取り上げているが、後世もっともよく論じられたのは運動のパラドックスに関するものである。アリストテレスは運動の否定という結論は退けるが、連続に関わって運動は時空間が無限分割可能であるとして捉えうるとの論証を支える一つとして、ゼノンの議論を持ち出している。すなわち、否定されるのは運動ではない。パラドックス(飛ぶ矢)の成立は、不可分割的な長さ・時間という前提がある故であるから、その前提が否定されるとしている。しかし分割が無限に可能ならば、無限の問題を解かなければならない。彼は、
「ゼノンの議論も、有限な時間において、無限なものども〔点〕を通過することができない、あるいは無限なものどもと一つ一つ接触することができないという誤った仮定に立っているのである。…有限な時間においては、…分割にかんして無限なものどもと接触することはできる。」
と言い、無限分割される空間には無限分割される時間が対応する、とする。つづけて彼は、有限なものには有限な時間で通過できるとの論証を試みている。彼は、それに留まらず、更に別の観点で、人々は或る距離の「全距離を通過したとすれば、無限な数を数えおえたことになるだろうが、これが不可能なことは広く承認されているところである、と考えるのである。」
と言い、これに答えて言う。一つの線分が二分割の集積として完全現実的にあるとする者は、分割点を始点と終点と二つに数えて、「運動を連続的ではないものとし、停止させることになるだろう。」
「それゆえ時間においてにせよ、長さ〔距離〕においてにせよ、無限なものどもを通過することができるかどうかを質問する人にたいしては、或る意味ではできるが、他の意味ではできないと答えるべきである。すなわち無限なものどもが完全現実的にあるとすれば、それらを通過することは出来ないが、可能的にあるとすれば通過することが出来る。というのは、連続的に運動する人は、付帯的な意味で無限なものどもを通過し終えたのであって、無条件的な意味で通過し終えたのではないからである。というのは、半分なものどもが無限にあるということは、線にとっては付帯的なことに過ぎず、その実体すなわちそのあり方は、それとは異なっているからである。」
と、論じている。ただし、これは、ゼノンへの回答としての閉じたものではなく、
「以上述べた議論や何かそれに類した議論は、直線運動は連続的ではなく円運動のみが連続的でありうるという、ここでの論点を人が確信するための適切な議論であると言えよう。」としている。
レオナルド・ダ・ヴィンチは「点とは、ありうるかぎりのものよりさらに小さいものであり、線はその点の運動によって作られる。線の極限は点である。次に面は線の運動から生れ、そしてその極限は線である。立体は(面積の)運動によって作られる。(そして、その極限は面である)(「手記」)」と語っている。
スピノザは「持続が瞬間から成るとの主張は、悟性によって把握される不可分な無限の量、表象能力によって把握される可分的な有限の量の両者が区別されないことに基づく」と指摘している。
ヘーゲルはゼノンの議論を認めた上で、そこから帰結するのは運動が存在しないということでなく、運動は定有する矛盾であるということであるとしている。
バートランド・ラッセル
数学上の問題が一段落したのち、新たな見解がいくつか提案された。その一人、ラッセルは、
「したがって、ゼノンの議論は空間と時間とが点と瞬間で構成されているという見解に向けられているのであって、空間と時間の有限のひろがりは、有限の数の点と瞬間からなっているという意見に対する反論と同じように、ゼノンの論証は詭弁ではなく、まったく正しいのであると私たちは結論することが出来る。」
と言う。そして、逃れる道は、
(1)空間と時間は点と瞬間で構成されているが、有限の空間的あるいは時間的区間に含まれる点や瞬間の数は無限であると主張するか、(2)空間と時間が点と瞬間で構成されていることを否定するか、(3)空間と時間の実在性を全面的に否定するか、といういずれかの方法に依らなければならない。
ラッセルは(1)の見地から、歴史上のゼノンが考えていたかはさておいて、たとえばと、アキレスと亀を再解釈し、時間の系列から見ると、アキレスと亀は1対1に対応する。もしアキレスが亀に追いついたなら、亀の通過した場所とアキレスの場所が1対1に対応する。すなわち、異なる距離が1対1に対応するということになる。
このパラドックスは、集合論に於ける無限の定義によって初めて厳密に解消された、と。ただし、ここでラッセルの言う無限とは基数としてであって、単なる「限りが無いこと」ではない。飛ぶ矢については、
「私たちは、矢が飛んでいる時には、次の瞬間に矢が占める次の位置があるという想定を避けることは難しいと考えるのであるが、実際は次の位置も次の瞬間も存在しないのである。」
ゼノンの指摘の通り、矢はある時刻にある位置にいる。だからといって動かないのではなく、「運動とは時間と場所とに相関があって、異なった時点において異なった位置を占めること」に過ぎない、とラッセルは言う。
ラッセルの言う(2)の見地から論じた者としては、ベルクソンが第一に挙げられる。
ギルバート・ライル
ライルは「アキレスと亀」に関して、追いつく事例においてゼノンの論が如何にして追いつかない様に見せているかを論じ、一つの解決を示したとする。ケーキカットを例にとって、彼は説明する。常に一切れ残るように切れという指示であればキリがないと見えるが、それは残り一切れを足すとケーキ全体ができあがる点を見逃している。ゼノンの議論からすると、アキレスは亀との相対速度を知らず、常に前に居ると思わされている。「私たちはアキレスの眼を通してレースを見るように誘導されることによって、その知識〔ゴールまでの一部が残るだけであること〕を冷凍冷蔵庫に入れるように仕向けられたのである。」ゼノンの言う決して追いつかないと、数列の和が決して収束値に達しないとは、まったく異なった意味である。
大森荘蔵
大森は「運動の時間的連続性がある限り、ゼノンの論法を避けることはできない。」と論じ、続けて「点運動とは矛盾を含んでいる」、「幾何図形の運動とは、矛盾概念なのである。」とする。従って点運動にもとづくゼノンの論法は、この矛盾として解消される。物理学・工学がこの矛盾から逃れているのは、それらが運動をではなく静止図を扱っている限りであるに過ぎない、と言う。その点運動の逆理とは、点Xが動くということは同一の点Xが始めは点Aと同一で、終わりには点Bと同一であると言うことである。この逆理は、点時刻概念によってもたらされる。それは線形時間の刻み目として考えられたもので、経験的実用時間の「基準となるように考えられた理論的時間なのである。」、「一言で言えば、この理論的時間は基本的自然法則を成り立たせるように思考された時間である。...それ故に科学理論の中では、飛ぶ矢の逆理は生きているはずである。」、「科学に飛ぶ矢の逆理から激しい症状が起きる可能性は常にある。」と言う。
出典 Wikipedia
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