2018/01/09

ゼノン「アキレスと亀」

出典 http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

 ゼノンには「多の存在の否定」という論理学的な議論もありますが、ここでは「運動の否定」を見て行きます。

.いわゆる「二分割のパラドックス」と言われているものですが、これは運動の否定を言ってきます。内容ですが、仮に私たちがいる場所をA点とします。そして「運動がある」として、その運動の先をB点とします。さて、私たちがA点からB点にいくためには当然、その半分の地点(これをC点としましょう)にいかなくてはなりません。ところが、このC点にいくためには当然、その半分のところ(これをD点とします)にいかなくてはなりません。ところが、このD点にいくためには、さらにその半分の地点(これをE点とします)にいかなくてはなりません。こんなことをくりかえしていたら、永遠に「半分、半分・・・」と言い続けていなくてはならないわけで、論理的にはそうなります。つまり、点は無限となってしまうのです。しかるに有限の時間のうちに無限を行くなんてことは不可能ですから、わたしたちは永遠にB点どころか、一歩も動けないことになるのです。

.似たような話ですが、いわゆる「アキレウスと亀」というパラドックスもあります。これは足がとてつもなく速い英雄アキレウスといえども、足の遅い亀に追いつくことができない、というパラドックスです。さて、アキレウスが少し先の方に一匹の亀を見つけたとして、それをつかまえようとして追いかけたとします。その亀のいる地点をLとしましょう。アキレウスはその亀をつかまえるためには当然、L地点にいかなくてはなりません。ところがアキレウスがL地点にきた時、亀はいくら遅いといっても歩いていたのですから、もう少し先の方に行っている筈です。その地点をMとしましょう。アキレウスは、今度はMまでこなくてはなりません。ところがアキレウスがMのところにきた時には、亀はやはり歩いていたのですから、今度はN地点まで先に行っている筈です。アキレウスは、今度はNまでこなくてはなりません。ところがアキレウスがN地点にきた時には亀はO地点に、さらにP、Q、R・・・と永遠に続いてしまうわけです。これでは、アキレウスといえども亀に追いつけません。これも理屈の上では、そうなるわけです。

 さて、以上の議論は「時間や空間は無限に分割できる」という前提に立っていました。とりあえず、このことを覚えておいて下さい。説明の前に、残りのパラドックスも見てしまいましょう。

.つぎは、いわゆる「飛んでいる矢は動かない」というパラドックスです。これは「時間」と「空間」という概念に更なる反省を迫るものですが、私たちは時間・空間というものを、どのように考えているでしょうか。とりあえず「どんなものにせよ、それが自分自身と全く等しい大きさの空間を占めている時、それは静止している」とよんでおくことにしましょう。なぜなら「動く」というのは、今占めている空間を「出て」いくことなのですから。「出て行かない」かぎり、それは「静止している」とよぶべきです。ところで、いま弦から離れた矢があったとして、その矢はどの瞬間をとっても「それと等しい空間」を占めていて、その空間を「出て行く」などということはありません。ということは、この矢はどの瞬間も「静止」しているとしかいいようがなく、動いている瞬間などないということになってしまいます。さて、ここでは、少なくとも「空間が一つの広がり」のようにされていました。前の二つのように「永遠に分割される」という前提にはなっていません。これも覚えておいて下さい。
.四つ目は「競技場のパラドックス」といわれているものですが、これはかなりややこしいです。まず前提ですが、これも今の三番目のものと同様、「時間と空間が単位」のかたまりと考えられています。ここで、運動会を想定してみましょう。

子供たちの遊戯がはじまりました。お父さん、お母さん、弟と妹の四人が並んで見学しています。その前を四人が一組に並んだ「組」が、たくさん「右に左に」踊りながら通り過ぎて行きます。そこで変なことに気が付きました。

一組さんは右に動き、二組さんは左に動きました。動く速さは遊戯ですから当然、同じ速さです。動いた結果、この三つの列は重なりました。

 ところで、この時、一組さんの先頭A君は二組さんの「Eさん」と「Fさん」の二人分だけしか動いていないのに、二組さんの先頭EさんはAさん、Bさん、Cさん、Dさんの四人分も擦れ違って動いています。

 さて、これを今度は時間に置き換えて見ましょう。つまり一人分を一秒とすると一組さんの先頭は二秒、二組さんの先頭は四秒かかっている、という計算になってしまいます。これは矛盾です。

 ところで、ここでは前提として「時間は一定のかたまりだとしたならば」というのがありました。時間が「かたまり」なのだとしたら、理屈はこのパラドックス通りとなってしまいます。そこで、さて時間とは一体何だ、という問題を改めて考え直さなければならなくなってくるのです。

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